閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

317 不純酒精交遊

 イズムといふ言葉がある。マルクシズムをマルクス主義と訳した時の、主義にあたります。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏なら既にご存知のとほりでせう。ところでこのイズムにはもうひとつの意味合ひがあつてそれは中毒。アルコーリズムならアルコール主義ではなくアルコール中毒。今ではアルコール依存と呼ぶのかな。マルクシズムならマルクス中毒になつて…こつちの方が収まりがいいと書けば、たれかに叱られるかも知れないが、 マルクスにもマルクス主義にも縁が無く、また興味も持たない男(わたしのことである)にその辺の想像は六づかしい。

 母親方の大伯父…松原の小父ちやん(ヲツチヤンと訓んでもらひたい)と呼んでゐた…がアルコーリズムのひと、簡単に云へばアル中だつた。年に一ぺんか二へんくらゐしか顔をあはせる機会はなかつたけれど、いつも背広をきちんと着て、ループタイをぶら下げて、大胡座をかいてゐた。目の前には必ず一升壜とコップがあつて、先づぱんと栓を抜く。お酒をコップに注ぐ。栓をぽんとしめてからそのコップを目の前に持上げる。かろく目礼をして、すーつと飲み干す。飲み干したコップを置く。暫く世間話をしてから、また一升壜の栓をぱんと抜く。がぶがぶでもぐいぐいでもなく、またすーつと飲み干す。それが延々と續く。松原の小父ちやんの呑みつぷりを意識して見たのは数回程度が精々の筈なのに、記憶が鮮明なのは、乱れの無い呑みつぷりが美事に思へたからで、まだわたしはお酒の味を知らなかつた。

 後年『深夜プラス1』といふ小説の、主人公が相棒(アル中のガンマン)を、べろべろにならなくてもいい、延々と呑み續けて、その内使ひものにならなくなると評する場面を讀んで、何の疑念も抱かなかつたのは、松原の小父ちやんを見てゐたからだらう。讀書にも経験が有効な場合があるといふ、ささやかな實例である。もうひとつ、小説中のガンマン(ハーヴェイ・ロヴェル)と現實の大伯父には、時間帯を撰ばなかつた点が共通してゐた。家庭内の小父ちやんがどんな暮しぶりだつたか知る由もないが、起きてゐる間ぢゆう、すーつと飲み干し續けてゐたのだらう。連れ合ひ(百合ばつちやん)がどんな顔をしてゐたのか。当り前に考へるとえらい目にあつた筈だし、その点は深く同情もしたいのだが、小父ちやんには零歳児の当時、大枚五百円(半世紀前の五百円!)のお年玉をもらつた恩義もある。百合ばつちやんには申し訳ないが、こちらの態度は少々あまくなつて仕舞ふ。

 お酒の味を知つたのはいつ頃だつただらう。どうもはつきりとしない。それにこの場合の“知る”は中々六づかしい。飲み出した時期であれば、三十歳になる前で間違ひない。ただそれは単に呑み始めただけのことで、好ききらひ以前に、おれはお酒も嗜めるんだといふ見栄の要素が大きかつた。口に適ふかどうかとか、味はひのちがひとか、そこまで(せめて)感じられる程度になつた時期を“知る”だとすれば、あまく見てもこの十五年くらゐであらう…いや未ダ知ルニ足ラズやも知れない。謙虚ではなく(待てよ、さういふ一面もあるか知ら)、何とはなしにでも味はひが解つてくると、矢張り何とはなしに、その奥行きが感じられてもくる。詰り経験を重ねる(この場合は呑む)につれ、知つてゐるぞ解るぞとは云ひにくくなつて…いやはや、日暮れて道遠しとはこのことですなあ。

 それで思ひ出した。呑む…お酒に限らず、麦酒でも葡萄酒でも焼酎でも泡盛でもヰスキィでも…のは日が暮れてからが原則の筈である。松原の小父ちやんに逆らふやうで残念ではあるが、その程度の区切りの感覚は持合せてある。尤も日暮れでは時節で大きく動く。冬至夏至で呑み始めがずれるのは有り難くない。そこで一応の目安はつける方が望ましいことになつて、私の場合は午后五時をそれにしてゐる。念を押すと午后五時は“一応の目安”であつて、たとへば旅行なら朝から罐麦酒を開けるのも躊躇ひは感じない。朝の特別急行列車に乗り込み、幕の内弁当やサンドウィッチをつまみに呑むのは寧ろ、我慢するのが六づかしいくらゐである。阿房列車を何本も走らせた内田百閒には叱られるかも知れないが、先生だつて特別急行列車に乗る前、驛の食堂でヰスキィをば一盞舐めていい気分になつてをられたのだから、渋い顔をされても誤魔化せるだらう。

 成る程確かに朝酒や晝酒はうまい。併しうまいと思へるのが当り前だと云ふのはどうやら不正確らしい。ハーヴェイ・ロヴェルは味が解らないと嘆いてゐる。あの哀れなガンマンは、時間に関係なく呑むけれども、それはアルコールを体内に入れてゐるだけで、醉ひは寧ろ化学反応の一種に近くなつて仕舞つてゐる。だからかれが本当に美味いマティーニの作り方を思ひ出して語る場面は、胸を衝かれる感じがする。松原の小父ちやんもさうだつたのかと思つたが、記憶にあるのは如何にも旨さうな顔だから、朝酒も晝酒も愉しんだにちがひない。百合ばつちやんは困つたらうが、恰好いいガンマンより、こつちの方がいいや。

 とは云ふものの、何ごともない日の朝から、ちよいと一ぱい呑まうかとは中々思へない。寝起きが惡いので、朝のわたしは大体のところ不機嫌でもある。また起きた直ぐ後は空腹を感じない。不機嫌でも空腹でなくても呑めはするだらうが、さういふ腹にアルコールを落とすと、惡醉ひするだらうとは疑ひの余地がない。夜の酒席でさうなつた経験から云ふのである。だから旅行なんぞの切つ掛け…詰り不機嫌な朝でもない限り、朝は呑まない。晝は時々呑みたくなる。もつと時々は實際に呑みもする。殆どは麦酒。定食のおかずが明らかに麦酒を呼んでゐることがあるでせう。さういふ場合に呑む。もつと稀に、蕎麦屋で板わさを肴に呑むこともある。これはお酒でないと締まらない。惡くないですよ。自分の駄目つぷりも肴になる。午后五時の原則はどこにいつたと云はれさうだが、原則は原則である。例外は認められて然るべきでありませう。

 かう書くと早合点な我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、ははあ丸太は松原の小父ちやんやハーヴェイ・ロヴェルには及ばないにしても、アル中なのだなと思ふかも知れないが、それはちがふ。では何を根拠にちがふと断言するのだと追撃される筈で、本当の呑み助は肴を必要としない。海苔やハムの切れ端、もしかするとひと摘みの塩か小指の先の胡椒でも呑める…呑み續けられるのがアル中(の少なくとも資格)で、わたしはそんな呑み方をしない。いや“しない”なのでなく、“出來ない”のが正しい。呑むなら断然つまみが慾しいし、さうでなければ呑みたくない、といふより呑めない。野暮だなあと思ふならそれでかまはないが、世の中の酒精の殆どすべては、食べながら呑んで旨くなる仕掛けになつてゐるんですよと、ささやかな反論(酒造所の見學で常々感じる不満は、自慢の銘柄にあはせるつまみを用意してゐないことだ)はしておきたい。それだと純然とした味はひが解らないだらうと云はれるだらうか。併し不純な方が旨いのなら(實際うまいと思ふ)、そつちを撰ぶのが人情の筈だし、わたしは断乎としてそちらに与する。不純酒精交遊、上等ですよと云ふと、少々品下れるけれども。

 それはさうと、つまみと共にお酒を愉しまうとする態度を、何イズムと呼べばいいのか知ら。