閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

320 つまみが要る

 麦酒を呑むには、つまみが要る。

 お酒でも葡萄酒でも泡盛でも焼酎でも事情は同じで、例外にしていいのはヰスキィくらゐとも思ふが、ここは麦酒に限つておく。

 蒸し暑いのだから、かまはないでせう。

 麦酒は懐の深い飲みものだから、大体の食べものは適ふ。かう云ふとチョコレイトやらキャンディやらクリームを持出すひとが出てきさうだが、面白がりならまつたく的外れだし、眞顔なら下戸に決つてゐる。詰り無視しても差支へない。

 併し本当か知ら。我われが考へるのはきつと本の麦酒であつて、獨逸や白耳義の麦酒に、その懐があるのかどうかは解らない。ソーセイジや馬鈴薯にはきつと似合ふとして、ビーフ・ストロガノフやシャシリューク青椒肉絲のお供にゲルマン・ビアがしつくりくるものかどうか。

 さう云へば古代の埃及にも、麦酒はあつたさうですな。下層民の飲みものであつたといふ。ピラミッド建設に携つた労働者が、一日の仕事終りに引つ掛けたのだらう。何をつまんだのだらうね。四千数百年前の埃及は、現在のやうな荒地ではなかつた筈(でないと大文明は成り立たない)である。無醗酵の麺麭に焼いた羊肉でもつまみながら、工事管理者の愚痴やら文句やら、云ひあつたのだらうと思ふと、何となく親しみが感じられる。

 残念ながら埃及工夫と盃だかを酌み交す機会は訪れないし、何かの間違ひでそれを得たとして、下級公務員の愚痴を聞かされてもこまるから、親しみは親しみのままにしておかう。

 話は日本で呑む麦酒に絞りますよ。我が國でもゲルマンやベルガエのビアくらゐ、呑めますよと云はれさうだが、また白耳義の小麦麦酒は中々美味くもあるが、さうではなく、東名阪は勿論、札幌や仙台、新潟から金澤、倉敷から広島、博多を経て那覇に到る円弧を描く列島で呑む麦酒、の意味である。

 一体日本が妙だと思ふのは、規模がある程度の都市なら、世界各國の料理を食べるのに然程の不便を生じない。中華に伊太利、佛蘭西は云ふに及ばず、西班牙や土耳古に印度、我らが獨逸や白耳義も例外ではない。こんな都市を抱へる國は外にあるのか知ら。その辺の考察はさて措き、東都に住んでゐると、タコスと麻婆豆腐とピロシキをひとつ卓に呑める。さういふ場所には必ず麦酒があつて、コロナや青島だけでなく、アサヒやキリンも用意されてゐるのが常といつていい。何故か。深い詮索は避けるとして

 ・麦酒が(日本では)新参の酒精であつたこと。

 ・参入の時期はまた、食事の変化…激変とも重なつてゐたこと。

 ・従つてその味はひは、意図の有無を問はず、最初から中庸が望ましかつたこと。

の三点は指摘しておきたい。だから卓にあるのがカリー・ブルストやザワー・クラウトは勿論、タンドリー・チキンでもロースト・ビーフでもウィンナ・シュニッツェルでも、酢豚や回鍋肉でも、日本の麦酒があれば酒席は成り立つ(一応かも知れないのは認めておかう)ので、これは大したことだと云つて、誤りにはならないと思ふ。

 併し大したことなのは長所として、短所がないとは云へない。我が國の麦酒には、これとなら万全といふつまみが無い。どれと組合せても、合格点は叩き出すけれど、他の追随を許さないところまでは辿り着くのは六づかしい。わたしのささやかな体験で例外と呼べるのは、沖縄でのポーク玉子とオリオン・ビールの組合せで、鹿児島での黒豚とキリンでは、さうと云ひにくい。薩摩人と黒豚養豚のひととキリンのひとに叱られてはこまるから、急いで念を押すと、それらが劣るのではなく、きつと美味いのは疑ふ余地はない。沖縄オリオンポーク玉子に較べて、(まことに残念だが)決定力に欠けると云ひたいんである。とは云へ、日本麦酒の中庸性を考へるに、沖縄オリオンポーク玉子の組合せは特殊に過ぎる。もつと一般的といふか、漠然と“麦酒を呑むなら食べたいもの”で、何か有力なつまみは見当らないものだらうか。

 たとへば鯖の塩焼き…寧ろごはんとお味噌汁が慾しくなつてくるなあ。

 或は鯵フライ…惡くはないが、何がなんでもとまでは思へない。

 コロッケ…ある時期、えらく嵌り込んだが、おやつですな、本來は。

 もつ煮こみ…これは中々宜しいのだが、酎ハイやホッピーの方が似合ふ。

 なんだ目星すらつけてゐないのかと呆れられさうな気がしてきたが、無いわけではなく、ただあまりに当り前なので口に出しにくい。何だと云ふと鶏の唐揚げ、焼き鳥、焼き餃子の三点で、ほらね、詰らないでせう。ここに茹ででも焼きでもソーセイジを追加して、“麦酒のつまみ撰手権”でベスト・エイトの半分が決つたと云つても、非難される心配はまあ無いでせう。詰るか詰らないかは兎も角、わたしは捻ね者を気取る(厭みですよ、ああいふ態度は)積りはないから、かうなつて仕舞ふ。また鶏の唐揚げと焼き鳥と焼き餃子(贅沢を云へばそこにソーセイジにザワークラウトがあれば)、麦酒を囲む酒席の基本形が完成するのは事實でもありませう。何とも上品さに欠けるつまみではあるが、麦酒自体が一日の烈しい労働の後、胃の腑に落し込む飲みものだから仕方がない。それにこれなら、ゲルマン人とベルガエ人を招いても、愉快な席となるにちがひない。

 さう考へたら、一応の満足は感じられた。それでは唐揚げをつまみに、罐麦酒を一本、呑むと致しませうか。