閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

327 書く為のカメラ

 書く為といふのは文字通りで、たとへばこの手帖に書けるカメラかどうかの意味。

 何をまた阿房なことをとあきれられるか。

 ライカに決つてゐるだらうと云はれるか。

 まあ、どちらでもいいや。

 商賣で云ふとライカニコンになるらしい。歴史が長く、逸話に事欠かないのも、書く為といふ目的には具合が宜しい。ファンも多いから、ある程度の賣上げだつて、見込めるだらう。

 尤もその逸話は数が限られてゐる。熱心な取材で新しい逸話が見つかりでもしないと、あつちの本とこつちの本で、同じ話を同じ口調で聞かされることになる。迷惑である。

 ところでカメラの話を書くのが、文章に関しては我われと同じ素人の寫眞家が大半なのは、前々から不思議で仕方ない。稀に(元)技術者や研究家も書きはするが、いづれにしても素人の文章で、讀むのが忍耐力の試験のやうになる。

 かういふ分野は、寧ろ素人…アマチュアの方がましですよ、といふ意見が出るかも知れない。云ひたいことは解る。解るが所謂カメラ・ブログの文章で感心したことは一ぺんも無い。丸太もさうだよといふ指摘は、認めるのに吝かではない。

 話がいきなり逸れた。

 カメラの話を書かうといふ時に、屡々忘れられてゐて、併し忘れてならないのは、歴史の感覚ではないか。カメラ史を含めた時間の話。たとへば永井荷風は昭和十一年にローライを入手(『断腸亭日乗』の同年十月二十六日に“安藤氏に託して寫眞機を購ふ。金壱百四円也”とある)してゐる。“断腸亭”によると、玉の井の娼婦が買つた出物の箪笥が九十円、茶棚が七十円。“外出”は一時間十五円(荷風本人は“あなたなら十円にまける”と云はれてゐる)とあるから、寫眞機の壱百四円は、さう篦棒でもないか。

 序でだから昭和十一年はどんな年だつたか調べると、寫眞関連なら、二月に理研感光紙(今のリコー)、十二月には小西六(後のコニカ)が設立されてゐる。これで当時の日本は、カメラの後進國だつたと解る。ただ暢気にかまへるわけにもゆかず、天皇機関説の排撃や二・二六事件と、きな臭さが鼻の奥にこびりつきさうな雰囲気が充満してもゐた。その一方で阿部定事件といふ花やかで猟奇的な大騒ぎもあつた。こんな風に確かめると、ローライといふただの二眼レフに時代の匂ひがつく。

 すりやあ昭和の前期なら色々あつたさ。

 その書き方が望ましいのかは疑問だよ。

 と異論反論が出るのは当然である。わたしの書き方で商賣になるかと云ふと、怪しいなと思へるのも否定しない。とは云ふものの、判子のやうな文章計り讀まされるより(程度の問題は認めるけれど)、ましではないか知ら。それに歴史を俯瞰しながらとらへる方が面白い機種も確かにあつて、詰りそれが書く為のカメラに相応しい。