閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

329 遍照饂飩

 ちよつとした温泉地、景勝地に行くと、何とか温泉や何々の井戸は、お大師さまが掘りあてたとか、杖をついた場所から水が溢れてきたとか、そんな感じの看板を目にする機会がある。妙に誇らしげなのが微笑ましい。

 お大師さまと呼ぶ時、それが空海弘法大師を指すのは、改めるまでもないでせう。佛教史上、大師号を授けられたのは空海だけではないけれど、我われが大師と聞いて思ひ浮べるのは、千二百年も前のこのひとに限られる。

 多種多藝のひとだつたらしい。能筆家で詩文に長じ、サンスクリットを解し、建築土木まで異才を発揮したといふから怪人ですな。ことに建築や土木は、下層民の目でも直ぐに解る。我が町の温泉や井戸も、お大師さまにあやかりたいと思ふのは当然の人情である。史料だと空海はこの土地まで足を運んではゐないなどとあげつらふのは野暮な態度で、我われは成る程さうなんですねと呟けばよい。

 殺風景な話だが各地に残る空海の伝承は、後年の高野聖が捏造…いや訂正、創作したもので、井戸温泉だけでなく、平仮名や伊呂波までお大師さま由來だといふ。本当なら、我われに残る文化の中核をなしたことになつて、超人と呼んでもまだ足りない。さういふ中で愉快なのは饂飩も空海由來のひとつに挙げられてゐることで、空海の故地は讃州、即ち今の香川県。眞疑はさて措き、妙な説得力があるね。

 小麦を水で練つて、麺状にしたもの。

 といふのが饂飩の大まかな定義ださうで、これに従ふと冷麦や素麺も饂飩類になる。實際、明確なちがひは示されてゐないから、上の定義に“ある程度の太さを有する”といふ條件を加味したものが饂飩であると曖昧に云ふ外はなささうである。曖昧と云ふより、いい加減かも知れない。

 さてここで我われは、古代の羅馬人を思ひ出さなくてはならない。かれらの主食は小麦で、またそれを麺麭に仕立てる技術も持つてゐたが、上代の讃岐人はさうではなかつた。小麦そのものは空海が存命の頃にも栽培され、五穀のひとつですらあつたのに。と考へる時、幾つかの推測は可能である。先づ製粉の技術が撞き麦が精一杯程度の拙劣さだつた。麺麭を焼く為の火力…設備の用意も出來なかつただらう。それに五穀の一角を占めてゐるのに、飼料に用ゐられた形跡がある。何より讃州では米が穫れる。米は租税で取られるとしても、地味の豊かな讃岐で、わざわざ小麦を代用食にするだらうか。かう推測すると、お大師さまが饂飩を伝へたといふ説は(残念ながら)怪しいと云はざるを得ない。香川人よ、もつて諒とされよ。

 空海は(ほぼ間違ひなく)関はらず、また小麦の麺麭への加工が出來なかつたとは云へ、饂飩はそれを補つて余りある食べものである。何しろ、うまい。そしてうまいのは正しい。尤もこの手の食べものの常として、現代の我われが思ふ饂飩の姿になつたのはいつ頃からか、はつきりしない。諸々の説を併せて考へるに、小麦を挽くか撞くかしたのを水で捏ね、蒸すか茹でるかしてゐた(あん無しの水餃子のやうな)のが、麺の形になり、温かいつゆで食べるに到つたのは室町期であるらしい。

 併し室町期といつても、十四世紀半ばから十六世紀後半にかけて、二百三十年余りの幅がある。あの脆弱な政権が十五世紀の半ば過ぎ辺りから形骸化…支配の正当性を担保する判子のやうな…の一途を辿つたことから、安定期に成り立つたと見るのが妥当か、それとも混乱期の必要が形作つたと見立てればいいのか、想像の余地はたつぷり残されてゐる。ここに出汁の取り方や火力をどう手配したか、おそらく最初は店で出したと思へるが(火力の設備と原材料費や燃料費の都合から云へば、家庭でどうかうは出來なかつたらう)、商ひの形態はどうだつたかといつた様々の條件が絡む。仕形がない、大雑把に二世紀余りの内に形が調つたと考へておかう。

 我われはここでまた別のことを思ひ出したい。現代の日本に直接繋がる食べもの(たとへばお茶と懐石)や建物(たとへば数寄屋普請)、習慣(小笠原の礼法がさうだつた気がする)…総じて文化と呼ばれる事ども、その少なくとも原形は、室町期に成り立つた。確か農業の生産高が跳ね上つたのも室町期を通してだつた筈で、戰の世が農業…喰ふ為の技術(農具然り灌漑然り)を高めたのかと思ひたくもなるが…血の匂ひがする方に進むのはやめませう。わたしは臆病なんです。

 ところで室町期に成り立つた現代の原形には、それまでにあつた諸々の改良と洗練も含まれてゐた、と考へるのは寧ろ当然である。そこで前言を翻すと、饂飩そのものは兎も角、撞き麦を捏ねて茹で或は蒸す、その程度の調理法であれば室町殿が開かれる以前にあつただらう。更に水餃子の源流と云へる"嬌耳(正しくは去寒嬌耳湯。羊肉に花椒、去寒の藥剤を煮詰め、刻んで、小麦の皮でくるんだもの。凍傷向けの藥だつたらしい)は、空海の時代から七百年余り前、既にあつた。入唐中の空海が、冬の長安の町角でそのひと碗を口にしたとしても不自然ではない。空海の好奇心は生來でまた生涯のものだつた。お大師さまに有縁ではなく、讃州香川に恩義も借りもないわたしだが、あの怪人が“饂飩に繋り得る小麦の調理法”を伝へた(可能性がある)といふなら、同意を示せるのではないかと思へもする。

 ここまで色々と書いたのは、詰り饂飩がうまいからで、うまい食べものには、立派な故事來歴が慾しくなる。さういふ場合に空海といふ巨人がゐて…何とか温泉や何々の井戸と同じやうなものさと冷静を気取りつつでも…頼らない撰択があるだらうか。密一乗には申し訳無いが、饂飩は我らの胃袋を遍く照らしてゐる。