閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

334 難問肴本

 呑む時に肴…つまみが必要、わたしがそれを必要とするのは、既に何度も述べてゐる。だから我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から

「もうそれは、聞き飽きたよ」

と笑はれさうである。それに具体的な肴乃至つまみについてはこの数回、色々と挙げてゐるのに、まだ何か挙げ忘れがあるのかねと、呆れられても不思議ではないかと思ふ。併しかういふ話は飲み助の樂しみだから、とめどなく續くのが本筋である。ただとめどなく續けては、区切りを失つて呑み續けるのに等しくなつて、お行儀が惡い。なので食べものではない肴を幾つか挙げて、一旦の区切りにする。

 先づは音。音樂が好もしいのは勿論だが、たとへばラヂオでもいいし、賑やかな酒場での周りの人びとの喋り聲や店員の応対の聲も含めたい。そんなのが肴になるのかねえと疑問が提出されさうだが、樂しげな聲は含んだ一ぱいを確かに旨く感じさせる。或は花やかなポルカや勇ましい行進曲、贔屓チームの佳い試合が流れてゐれば、愉快な夜の約束は早くも果されたと云つていい。お代りを、くださいな。

 とは云ふものの、残念ながら、毎度毎夜さういふ音に恵まれるとは限らない。隣の卓で痴話喧嘩なんぞを聞かされる不安だつてある。何べんか耳にしたが、あれはまつたく、酒代を押しつけたくなるやうな気の滅入る音で、人前でああいふ眞似を出來る心情は不思議でならない。もしかして見せびらかしの変種なのかとも思へるが、だとしたら傍迷惑な顕示もあるものだと、溜め息をつきたくなつてくる。

 愉快でない話は止めませう。讀者諸嬢諸氏には退屈でせうし、こつちだつて詰らない。

 さてでは映像はどうだらうか…惡くはないが、歓迎もしにくい。どうも視線が奪られる感じになるのが気に入らないんである。余計な音聲の無いスポーツの中継でもあれば文句も云はずに呑めるのに、我が國のスポーツ映像中継はセンセーショナルな叫びと、何がなんだか解らない冗談と、無益といふより有害な精神論で満たされてゐる。“さあここからはもう、気持ちの問題ですね”なんて聞かされると、そんなのは解つてゐるから、その気持ちとやらを出す方法論に触れろよと苦情を入れたくなる。

 仕舞つた。また変な方向になつた。

 今度こそ、戻しますよ。

 呑むなら呑むのに集中するのがいい。と云ふ積りはなくて、それだとこの稿が成り立たない。成り立たないのは仕方がないとして、丸太に外の案があるのかねえと思はれるだらうか。無くはないので、何かと訊かれたら本ですよと応じたい。平凡で申し訳ないと頭を下げた方がよからうか。平凡だらうが何だらうが、ポルカや野球中継のやうに受け身ではない、呑む場の樂しみで云ふと、本以上の撰択肢を見つけるのは六づかしい。

 ただ呑みながら讀むことを考へると、どの本の頁を捲るのか、そこがまた難問である。経験で云へば長篇短篇に関係なく、小説は向かない。罐麦酒一本くらゐなら、さうでもなからうし、小説の全部がいけないと断定も出來ないけれど、例外を挙げてゆけば切りがない。だからその辺には目を瞑る。目を瞑り序でに云へば、詩集もいけない。川柳狂歌はどうにかなりさうか…いやあれも(当時の)俗習や流行、和歌發句を知らないと、頭を捻ることになる。惡醉ひの起爆剤になりかねない。

 さうなると、ここは随筆またはその系統が文字通りの意味で無難ではないかとなつて、この方向に進むのは誤りでないと思はれる。但しその方向で何を撰ぶかとなると、慎重さが求められる。第一の理由として、そもそも讀むねうちのある随筆が少ない。エセーになるとごく僅かな例外を除けば潰滅と云つてもいい。理由の第二に、数少ない讀むに値する随筆やエセーから、呑みながらといふ條件を満たせるとなると、たいへんに困つて仕舞ふ。ちつと具体的にいきませう。酒席に似合ふ本であれば、少なくとも以下の三点が必須になるのではなからうか。

 一篇が短いこと。

 どこから讀み出しても、またどこで止めてもかまはないこと。

 アルテが巧妙なこと。

 前二者は兎も角、最後の一点がどれだけ困難なことか、またさういふ随筆やエセーがどれだけ稀少であるか、我が賢明なる讀者諸嬢諸氏には諄々と説明するまでもないでせう。我われはもしかするとエセー不在の時代に生きてゐる。

 と嘆きつつ、更に具体的にいきませうか。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三)は我が國が持てたひと握りのエセーに入る一冊だけれど、呑みつつ讀むと、呑んでゐる自分がバルバーリに思へてくるから…きつとそれは間違ひではないのだらう…撰びにくい。『檀流クッキング』(檀一雄)が紛れもない名著なのは、今さら聲を大きくするまでもないとして、これは麦酒を引つ掛け、鍋から立ち上る大蒜や葱の香りを樂しむ為の本だから、位置づけが異なる気がする。司馬遼太郎のエセーの面白さは認めるとして、しみじみ考へさせられることが多く、陽気な気分になりにくい。

 そんな風に考へを進めると、内田百閒の『御馳走帖』や田辺聖子の“カモカのおっちゃん”もの(この少女小説家なら、短篇集も含めたい)は間違ひなく、丸谷才一の評論を含まない随筆も惡くない。丸谷だけ惡くないとやや引くのは、アルテが巧みすぎ、時に酒精を忘れかねないからで、この場合は褒め言葉になるのかどうか。も少し短いのがよければ、齋藤緑雨のアフォリスムを挙げてもよいが、毒の効き次第では惡醉ひの恐れ…その毒は痛快でもあるからややこしい…がある。さう考へると『茶話』(薄田泣菫)の方が安心出來さうでもある。

 そこでわたしの経験を云ふと、今のところ『私の食物誌』(吉田健一)が最良である。この批評家の文章にはアイリッシュ・ヰスキィのやうな癖が感じられるけれど、一篇がすつきり短いから、そんなに気にならない。一讀すると北海道の牛乳から鹿児島の薩摩汁まで、茶漬けや焼き竹輪から烏賊の黒づくりまで、全國の様々な美味い…美味さうな食べものが並べられてゐるから、腹立たしくなりさうなところなのに、ここで泥炭風味の文章が活きてくる。たとへば

「これはカナダ式とかいう種類のもので普通のよりももっと強く薫製にするものであるらしいのがその味を出すのを助けているのかとも思われて、兎に角群馬県の山奥の村にいたりしてこの高崎のベーコンが手に入れば暫くは朝の食事が豊かなものになる」

(高崎のベーコン)

といふくだりを讀んで、きつと群馬の山奥で食べる朝めしのベーコンは旨いのだなと想像は出來ても、それ…といふより、そこが果して現實に存在するのか、どうも曖昧である。ただ曖昧は曖昧なままで美味さうなのも事實であつて、詰りアルテ。かういふ本がもう二冊か三冊もあれば、わたしの寿命が尽るまでの心配は要らないのだが、それが中々に見当らない。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には是非とも、推奨に値する一冊をば、ご教示をお願ひしたい。