閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

338 トーゴー・シチュー

 東郷平八郎には、明治四年から十一年にかけて英國留學の経験がある。

 帰後年、呉鎮守府(明治二十四年頃、参謀長として着任)か舞鶴鎮守府(明治三十四年の新設に伴なつて長官として着任)のえらいひとになつて

英國で喰つたあれが食べたい」

と云ひ出して、併し調理場では東郷の云ふ“牛肉と馬鈴薯と玉葱が使つてある煮物”が何なのかよく解らず、醤油と味醂で仕立てたのが、肉じやがの原型であるといふ。

 まあ、嘘でせうな。

 明治十九年から二十三年にかけ、海軍兵學校に在籍した秋山真之が、寮だかで洋食を食べたさうだから、海軍は文明開化が進んだ組織だつたとみてもいい。それに『五等厨夫教育規則』(明治二十二年制定)には“シチュウー仕方”、“カレーライス仕方”が主計科(新兵)に教へるべき料理として指定されてもゐる。さう考へると、後年のアドミラル・トーゴーが鎮守府の高官だつた当時、調理人が知らなかつたとするのは無理がある、といふより有り得ないと断じて、かまはないでせう。序でながら、昭和十三年發行の『海軍厨業管理教科書』には“旨煮”が収められてゐる。作り方は以下の通り。

 

 ・材料:生牛肉、蒟蒻、馬鈴薯、玉葱、胡麻油、砂糖、醤油

 ・所要時間

  油入れ送気(蒸気で鍋を加熱することらしい)

  三分後 生牛肉入れ

  七分後 砂糖入れ

  十分後 醤油入れ

  十四分後 蒟蒻、馬鈴薯入れ

  三十一分後 玉葱入れ

  三十四分後 終了

 ・注意書として以下の文言。

  醤油を早く入れると醤油臭く味を悪くすることがある。

  計三十五分と見積れば充分である。

 

 現代の肉じやがに近い材料(蒟蒻は四角いやつを千切つたのだらうか)と手順と云つていい。但しその書き方は實に機械的な無愛想さである。その一方でまづさうな感じはしない。おほむねの分量が判れば、何とかいふレシピ自慢のウェブ・サイトの文面より余程すつきりしてゐる。尤もこの感想は、素人が投稿する文章への厭惡と不信があつてだから、信用してはいけません。それに素人文は兎も角、肉じやが自体はうまい。

 ただここで、上記の『海軍厨業管理教科書』では、“旨煮”と記されてゐるのが気になる。海軍式の無愛想さと考へられもするが、一方で『海軍厨業管理教科書』が纏められた当時は“肉じやが”といふ呼び名が無かつた(もしくは稀な呼び方)所為で“旨煮”とした可能性もある。取敢ずWikipediaの“肉じやが”項を見ると

「(肉じやがと)呼称されるのは、千九百七十年代中盤以降とされる」

とあつて、同項の脚註から、“畑中三応子『ファッションフード、あります。』”を参考にしたらしいと解る。畑中の本は目を通してゐないから、妥当な判断なのかどうかは保留するが、仮に正しい指摘だつたとすれば、“肉じやが”が定着したのは昭和四十年代末から五十年代初頭といふことになる。本当かなあ、と思つたら

 

◾️男心を捕える「私の得意料理は肉じゃが」、

さかのぼると海軍の味?(澁川祐子)

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/21440

 

 といふ一文を見つけた。

 一部を引用しますよ。

 

 1902(明治35)年に書かれ、1917(大正6)年に改定された『家庭日本料理法』(赤堀峯吉、赤堀菊子、赤堀みち子著、大倉書店)には、「牛肉の雑煮」という料理が載っている。

 <牛肉を賽の目に切って鍋へ入れ、ぢやが芋は四つ割位に、人参は小口に切、玉葱も程よく切り、これらを鍋へ混ぜ加へ水と砂糖を入れて、ぐづぐづと煮あげ、醤油を加へて皿へ盛ります>

 レシピを読む限り、立派な肉じゃがだ。

 また、1918(大正7)年9月8日の東京朝日新聞には、「五銭料理」として「小間切肉の甘煮」が紹介されている。材料は、豚肉、馬鈴薯、胡羅蔔、醤油、砂糖、塩とある。肉が牛ではなく豚なのは、当時高価だった牛肉に代わって、豚肉が安価で普及し始めていたからだ。

 

 「肉じゃが」という名前の歴史は、意外に浅い。長い間、「じゃがいもと牛肉の煮物」だったり、「牛肉とじゃがいもの甘煮」だったり、名前に統一性がなかった。「肉じゃが」のネーミングが登場するのは、高度成長期終盤の昭和40年代終わり頃だ。

 昭和40年代後半から50年代前半といえば、ファストフードが一世を風靡した時期。食事の簡便化が進む一方で、成人病なども問題になりはじめていた。健康上の理由から、伝統的な和食を見直す気運が高まっていた。そこに肉じゃがは、ぴたりとはまったのである。

 昭和50年代、「肉じゃが」という名前が広まっていくにつれ、次第に「おふくろの味」として注目を浴びるようになる。「肉じゃが」が「おふくろの味」として騒がれはじめたのは、実はたかだか30年あまりなのである。

 

 引用前半はいいでせう。海軍式より肉じやがらしい変更が加へられてゐることと、変遷からどうやら牛肉を使ふのが肉じやがの正統であるらしいことが解る。

 後半は少々物足りない。“じゃがいもと牛肉の煮物”や“牛肉とじゃがいもの甘煮”と呼ばれてゐたのであれば、略されて“肉じやが”になつたのだらうと思へるが、それが自然發生的だつたのかどうか(たとへば有名な料理の先生がテレ・ビジョンでさう云つたとか)が曖昧なのが惜しまれる。

 もうひとつ。澁川は“伝統的な和食を見直す気運が高まっていた。そこに肉じゃがは、ぴたりとはまった”と書くが、たかだか明治以降の生れである肉じやがを“伝統的な和食”とするには無理がある。そんなら白和へや鯵の干物の方が余程、伝統的であらうと思はれる。和食の見直しが正しい見立てとして、豆腐や干物でなく、肉じやが(だけ)に目が向いた理由がはつきりしなくなる。

 そこでここからは、わたしの推測。“じやが芋と牛肉の煮物”乃至“牛肉とじやが芋の甘煮”が広まつたのは、洋食の普及と歩調が近いと思はれる。牛肉と馬鈴薯と玉葱を(炒めて)煮るのは、カレーとシチューに共通する過程で、残るのは味つけのちがひである。煮物が明治以前からあつたのは云ふまでもない。そんな中で目端の利いためし屋の親仁が、“近ごろ評判の洋食屋”から盗んで、和風への転用を試したとしても不思議ではない。日本海海戰での完勝後、呉や舞鶴では、調子に乗つて

「東郷提督御愛用の味」

などと胡散臭ひ看板を立てた連中がゐたかも知れないが、まあそこはいい。肉じやがは要するに、天麩羅が西洋式フライの調理法を援用してとんかつやコロッケを生んだのと同じく、本質的には(解りにくいけれども)和洋折衷の賜物であつた。

 昭和の後期に肉じやがが注目されたのは、“洋風の献立”が当然になつた食卓で、“和風に転化させ易い”ことが大きな事情だつたと思へる。

「ね。奥さん。おうちでカレーやシチューを作るでせう。あれとおんなしなんですよ」

さう聞けば、里芋の煮転がしや鰯の生姜煮の

「名前は聞いたかも知れないけど、食べたことも見たこともないわ」

といふ当時の奥さんでも、それなりに安心して、お鍋に立ち向へたのではなからうか。昭和後期に現役だつた奥さんから、大変な非難を受けさうな不安もあるが、さういふ層がある程度にしても(とここで少し引いておく)あつたから、肉じやがは海軍の主計科から大出世したと考へられはしないだらうか。まことに平和的な出世と云ふべきで、これなら軍隊きらひのひとからも、辛辣な言葉を吐かれずに済む。

 

 さうさう。

 伝説で云はれる、東郷が懐かしがつたのは、ビーフ・シチューであつたといふが、落ち着いて考へると、これも少々あやしい。かれの英國時代をよく知らないままに云ふから、信憑性は正確にゼロなのだが、同じシチューでもアイリッシュ・シチューだつた可能性はないだらうか。

 ラムまたはマトンと馬鈴薯と玉葱。

 味つけは香草と塩胡椒。

 弱火で馬鈴薯が煮崩れるまで煮るだけの料理だが、實にうまさうである。アイルランド人は羊の腎臓を焼いたやつをつまみにギネスやブッシュミルズを呑み、シチューに舌鼓を打つたにちがひない。無愛想といつてもいいし、剛直と呼んでもよい。その風を歓びながら

「こいは、焼酎バ、呑みたか」

英國で呟く東郷青年の姿を想像してみたが、不自然な感じはされなかつた。