閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

339 スウィート・サワー・ポーク

 丸谷才一の『食通知つたかぶり』に“日本料理の基本ないし原型がどの系統に属するか”といふ、文明論的疑念が記されてある。“あるいは干物と納豆と豆腐の味噌汁で朝食をしたため”また醉つぱらつた深夜に“半分残つてゐる塩ジヤケでお茶漬を食べ”ながら、視覚的また味覚的に分析し、考察に耽りもしたさうだからまことに熱心。その疑問に霊感的な回答をもたらしたのは、陳舜臣に教はつたお店の料理だつたさうで、いはく

 

 あの淡泊でおだやかな味はまさしく日本料理と相通ずる。四川料理の辛さもないし、北京料理の油つこさもない。温雅で豊かで静かである。

 

と感激してゐる。何かと云へば広東料理。丸谷説の半ばは冗談だが、何となく説得された気分になつたのは、私淑の所為だらうか。尤も十分に納得したわけではない。第一に學説の検証が済んでゐない…詰り広東料理を本格的に食べたことがない。第二には酢豚が広東料理の一種であるらしいと知つたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、ご存知でしたか。わたしは知らなかつた。酢豚は大好物なのに。ただ酢豚のうまさは、丸谷説で云ふ広東料理の“温雅で豊かで静か”と少々異なつてゐるとも思へる。

 

 “酢豚”と“歴史”で検索をしてみた。かういふ時のインターネットは便利ですな。生眞面目な學問でなければ、大掴みに掴むくらゐは出來る。そこで福岡の[福新楼](http://www.fuxinlou.co.jp/ )といふお店に行き当つた。初代が福建のひとだから、広州料理の流れを汲んだ料理人だつたと考へていいでせう。そのウェブサイトに[酢豚の由来とレシピの紹介]といふがある。

http://www.fuxinlou.co.jp/column/tidbit/2015-09-04%E9%85%A2%E8%B1%9A%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%A8%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%94%E3%81%AE%E7%B4%B9%E4%BB%8B.html

 上記から引用しつつ、進めますよ。

 先づ我が國で云ふ酢豚を中國料理の表記にすると糖醋肉塊。但し大陸では、ほぼ古老肉といふものがあるさうで、“中国の町場のレストランなどでは比較的よく見る料理”とも書かれてゐる。併ではどうちがふか知ら。

 福建流か大陸全般でなのかは判らないが、かれらは豚を食べる時、一頭を丸々屠殺し(これは当り前として)、傷みやすい部位から、傷みにくい部位へと食べ進んだといふ。長期保存の技術が成り立つ前の話でせうね。上記から引用すると

 

 しかし、いくら傷みにくい部位でも、時間とともに熟成が進み、多少傷みます。その傷みを上手に調理し、肉のうま味を味わう為に「糖醋肉塊」という調理が生み出されます。

メニューに表記するときただ「糖醋肉塊」と書くのではなく、熟成が進んだ肉を使っていますという意味を込めて「古老肉」(古く老いた肉=熟成が進んだ肉)と名付けました。

これが「古老肉」という名前の始まりです。

(中略)

 まとめると「熟成の進んだ肉をおいしく食べるための方法として編み出され、今に至る」

これが「酢豚(糖醋肉塊)」の由来の一つです。

 

 成る程。どうやら糖醋肉塊が本來の名前、その中でも少々やれた肉を用ゐたのが古老肉と考へればいいらしい。併し残念ながらその糖醋肉塊がいつ頃、料理として成り立つたのかは、はつきりとしない。豚肉に下味をつけて衣を纏はせて揚げ、甘酢あんを絡ませるのが作り方の基本だから、たつぷりの油と安定した高温の焜炉が必要な筈で…いやここから先は、眞面目で熱心な酢豚研究家に任せたい。序でだから、料理屋ではないところが提案する酢豚の作り方を紹介しておきませうか。

・飴の俵屋

http://www.ame-tawaraya.co.jp/recipe/recipe_04.html

・飯尾醸造

https://www.iio-jozo.co.jp/recipe/10

どちらも[福新楼]式とは異なつてゐるが、これもまた旨さうで、寧ろ丸谷の云ふ“温雅で豊かで静か”な広州…日本料理に近しい。ああ、これは当り前の話であつたか。更に序でながら、どの作り方でも、あんにケチャップを使はないのは好もしい。あれは一説によると、酢に馴染まない、併し酢豚を食べたい欧米人向けに工夫した味つけださうで、そこまではいい。併し仮にも酢豚と呼んでゐて、酢の香りがケチャップにかき消されるのは如何なものだらう。酢豚の話題になると、パインアップルを入れるかどうかを樂しさうに議論するひとが必ず出てくるが、酢豚を愛好する以上、寧ろ議論すべきはケチャップの(過剰な)使用についてかと思はれる。ここでわたしの立場を云へば、パインアップルを入れるのには肯定的、ケチャップには否定的な派閥。酢豚は熱い甘酢あんの湯気に噎せながら食べるのが旨い。

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 ところで…広東料理に限らないが…酢豚や八宝菜や麻婆豆腐や青椒肉絲や鶏肉のカシューナッツ炒めは、どんな風に食べるのがいいのか。矢張りごはんのお供だよと云ひたくなる気持ちは判るし、わたしだつて同意を示すのに吝かではない。吝かではないが、どうも万全の組合せとは呼びにくい気もされる。一体あちらの料理は(我が國で大きく改造された餃子や拉麺を例外に)、ごはん抜きでも成り立つものが多い。一品が主食になり得ると云つてもよく、酢豚なら酢豚を主菜に、味噌漬けや蒸しものやソップや杏仁豆腐や紹興酒があれば、食事として完結する。丸谷は冒頭の本の中で二度に渡つて(神戸と横濱)広東料理を満喫してゐて、どちらでも、ごはんについてはまつたく触れてゐない。[福新楼]で酢豚を食べたら、ごはんが慾しくなるのか知ら。

 

※酢豚の画像は[福新楼]の“一品料理”から拝借しました。

 料理の名前は“糖醋肉塊/豚肉と野菜の甘酢煮(すぶた)/Sweet and Sour Pork with Vegetables”と書かれてゐる。