閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

340 ソ・トーバ・スタイル

 蘇東坡。十一世紀頃、北宋の中期から後期にかけての人。[美術人名辞典]によると

https://kotobank.jp/word/%E8%98%87%E6%9D%B1%E5%9D%A1-19658

 

 中国北宋の詩人・政治家。四川省生。名は軾、字は子瞻、東坡は号。文人として世に知られる。詩文を通じて、その作品の力強さは、人間愛の深さ、不屈の意志、激しい正義感など、人間としての偉大さに発するといわれる。画は枯木・竹石・寒林を得意とし、書は若年に王羲之、晩年には顔眞卿を学んだ。政治家としては、いずれの党派に対しても常に批判的立場をとった。徽宗元年(康和三)歿、六十六歳。

 

 と書かれてゐる。我が國で左遷された人物の代表格といへば菅公こと菅原道真(このひともまた政治家と文人を兼ねてゐた)だが、残念なことにかれはその身を嘆き怨むだけで、文人に欠かせない諧謔の気配は感じられない。序でに云へば左遷されたといつても、菅公の立場は筑紫大宰府権帥である。遠ノ朝廷とも称ばれた(特異な)組織で事實上の最高権力者だつたのを思ふと、清涼殿に雷を落としたのは、些かやり過ぎだつたのではありませんかねと小聲で呟きたくなる。

 蘇軾最初の追放は元豊二年(十一世紀後半)、四十四歳の時。湖州の知事時代である。国政誹謗の罪だつたといふから、死を覚悟したところを、時の皇帝神宗の計らひで、湖北省黄州への左遷で落ち着いた。黄州での生活は約五年。土地を東坡と名づけ、東坡居士と名乗った。因みに云ふと、坡は土手や堤、或は坂の意。住処の東側がさういふ地形だつたのだらう。丸谷才一が住居近くの坂を“さんま坂”と名づけ、つひに“さんま坂の先生”と呼ばれなかつたのと対照的ですな。十一世紀末の紹聖元年に二度目の左遷。この時は広東省恵州に流された挙げ句、海南島にまで追放された。罪が赦された年に歿する。六十六年の生涯で三べんも中央から遠ざけられたくらゐだから、剛直頑質な人だつたのだらう。この辺は西郷吉之助が連想されなくもない。西郷どんには文學的なユモアの感覚を持合せてゐなかつた気配が濃厚だけれど、さうでなければ革命家にはなれないのだらうな。

 併し千年後の我われは、文人ではなく書家でもない蘇東坡に感謝しなくてはならない。東坡肉…即ちトンポーロウは、伝承によると(厳密には怪しいのだが、かういふ伝承は信じる方が樂しい)蘇東坡發案の煮込み料理だからで、琉球のらふてーや薩摩の豚骨、豚の角煮の源流だと考へたい。豚肉は焼いても蒸しても炒めても燻しても旨いものだが、どうやら塊のままを、時間を掛けて煮るのが一ばん旨いらしい。一説によると黄州は豚が廉に手に入る土地だつたといふ。豊かとは呼べない生活を強ひられた蘇東坡が目をつけなかつた筈はない。鱈腹喰へるし、過し易い気候ではなかつたらしい黄州でも、工夫次第で相応に保存が出來たとも考へられる。そこで豚肉を蒸すか下煮するかして、濃い醤油(あまいらしい)で煮込んでゆけば

「旨いし、長保ちもするんぢやあないか」

文人兼政治家が思ひついたのかどうか。ここでは思ひついたとしておきたい。きつと四川で育つた頃からうまいものを食べ、またそれを歓んだひとだつたのだ。菅公にだつて梅ヶ枝餅の伝承はあるが、残念なことに公の餅好きが高じてといつた逸話は見当らない。彼我のちがひだなあ。

 ここまで書いて不意に『檀流クッキング』の頁を捲ると、さすが檀大人、ちやんと“東坡肉(豚の角煮)”と題して、この食べものが記されてゐる。少し引用しませうか。

 

 まったくの話、「東坡肉」は、豚肉のご馳走のなかの王様のようなもので、一生に一度ぐらい、手間ヒマをかけ放題、日曜料理に「東坡肉」をつくってみてご覧なさいと、いってみたい。

(中略)

 蘇東坡という豪傑詩人は、宋の朝廷から大事にされたり、流されたり、また大事にされたり、流されたり、海南島なんかで配所の月を眺めていた自由人だが、この先生は、食べることに大変熱心であって、河豚なんかも、好んで食っていたらしい。

 

 いやあ。旨さうである。檀一雄が我われに教へて呉れる作り方をざつと纏めておくと

 豚の三枚肉を、脂身を上にして鍋にきつちり入れて大蒜と玉葱を詰め、水とお酒を差して、二時間計りとろ火で煮る。

 その豚肉を冷まし、今度は脂身を下にして、醤油に大蒜と生姜の中に漬け込み、冷蔵庫で更に冷しておく。

 ラードで、その冷した豚肉の脂身面を静かに焼く(邱永漢はたつぷりのラードで揚げるやうに焼くさうである)

 焦げ目がついたら取り出して好みの大きさに切り(ここで引用。“波多野須美女史は大胆不敵、豚バラの筋にそって、はじからはじまで切り通して、ご馳走してくれたことがある”)、脂身は下のまま、丼なぞに並べる。

 そこに葱をのせ、漬け汁、水飴、砂糖、大蒜に生姜を置いて(“ほんのかくし味のつもりで味噌も足し”ともある)蒸し上げれば出來上り。

 もう一度、云ふ。旨さうである。豚肉を煮るのがとろ火だつたり、冷ましたり静かに焼いたりするのは、豚肉を崩さない為の工夫と注意で、さういふことに無頓着でも、角煮にはならないが、旨い豚煮は出來る。この本にはまた、遠戚に当る“トンコツ”も載つてゐる。骨つきのばら肉を玉葱と大蒜で炒めてから、黒砂糖と焼酎で時間を掛けて煮る。肉が軟らかくなつたら味噌を溶き入れ、更に蒟蒻や豆腐や里芋、牛蒡に長葱を大振りなまま、一緒にとろ火で煮てゆく。檀いはく

「ゆで卵だの、タケノコだの、シイタケだのを煮込めば、これは贅沢なご馳走になる」

さうで、これなら寧ろ“東坡肉(豚の角煮)”より旨いかも知れない。焼酎が旨からうなと呟きつつ、ここで空想の目を宋代の豪傑詩人に向けると、かれが配所で舌鼓を打つたのは、こつちに近いのではないか。醤油や紹興酒で煮て冷ました豚肉を甕か壷かで保存し、黄州の根菜や薯(もしかすると我が手でもぎ、或は掘つたかも知れない)や茸、玉子や練りものを入れて温めたのを食べた…といふ史料も逸話も知らないが、さう考へる方が蘇東坡には似合ひさうである。わたしにパスティーシュの才があれば、ここで“檀式トンコツ”をつまみに盃を酌みかはす、豪傑詩人と流浪の小説家の酒席を描くところなのに、肝腎なところで菲才が露になつて仕舞つた。