閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

341 麦酒!

 普段は出來るだけ感嘆符を使はない。あの記号はどうも下品…訂正、軽薄で、気分としてはさうであつても、用ゐればその気分も含め、實際からは離れて仕舞ふ。腹の底で呟くのと、聲に出すのと、文字にするのでは、色々とちがふのだ。

 併し眞夏の麦酒は例外であつて、これは数少ない世界の眞實でもある。

 葡萄酒。シャンパン。泡盛。焼酎。ウォトカ。アイリッシュにスコッチ。紹興酒。思ふままに挙げてみたが、麦酒以外に感嘆符は似合はない。もしかするとわたしの知らない眞夏の酒精で、麦酒を蹴散らすくらゐ、感嘆符の似合ふ一ぱいがあるのかも知れないが、知らなければそれは無いのと同じである。なのでこの稿では麦酒を、感嘆符が似合ふ唯一の酒精とする。

 外の酒精と同じく、麦酒の歴史を遡つても、その最初はよく解らない。それでもざつと俯瞰するには、ビール酒造組合の[ビールの歴史]項が、中々具合が宜しい。これと併せて麒麟麦酒の[日本のビールの歴史年表]とサントリーの[ビールの歴史を教えてください]を参考にすると

http://www.brewers.or.jp/tips/histry.html

https://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/history/nenpyo/bn_01.html

https://www.suntory.co.jp/customer/faq/amp/001716.html?transfer=pc_to_mobile&utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

四千年かそれ以上前に、メソポタミア…シュメールが發見したと考へるのが妥当らしい。わざわざ發見と書いたのは、最初の最初は天然の醗酵に気がついただらうからで、物好きでなければ風変りなたれかが口に含んで

「こいつは、うまい」

と思つたにちがひない。そのうまい液体を偶然に頼るのはどうも、あれだと、技術として昇華出來たのが、歴史の靄のあちら側の事情ではなかつただらうか。ここで引用(以下特記しない限り、引用は上記から適宜おこなふ)すると

 

 当時のビールの製法は、まず麦を乾燥して粉にしたものをパンに焼き上げ、このパンを砕いて水を加え、自然に発酵させるという方法だったようです。

 

とある。さう考へるとシュメール・ビアを技術的に醸つた栄冠は、メソポタミアの麺麭屋か飯屋の頭上に飾るのが似つかはしいかも知れない。尤もメソポタミア麺麭や定食屋には云ひ辛いが、現代の視点で見ると、この飲みものを麦酒と呼んでいいのか、疑問は残る。麦酒工場の見學に行くと、どこでも必ず

「麦酒に大切なのは、水と麦とホップです」

と云ふ。具体的な醸造の手順は見學に行けば解るから、ここでいちいち触れない。試飲も愉しめることだし、實際に足を運ぶのがいいと思ふ。ここではシュメール・ビアにはホップが欠けてゐたと知つておけばいい。かうなるとホップを用ゐだしたのはいつ頃のたれだらうといふ疑問が浮んでくる。ここで再び引用しませう。

 

 いわゆるユダヤ人の「バビロン捕囚」の時代に、彼らの書き残したものがあります。彼らはワインも飲みましたが、ビールをセカールと呼び、その製造に大いに力を注ぎました。ユダヤ教の教書『タルムード』の中にカスタと呼ばれる植物がありますが、フーバーはいろいろな根拠からこの植物をホップと判断し、この時代からホップが使用されるようになったと推測しています。

 これに対しブラウンガルトは、その著書『ホップ』の中で、現在、メソポタミアの近くでホップの野生しているところはコーカサスであると書いており、この地方には今でも古代印欧語を話すオセッテという民族が居住し、野生のホップを使い、極めて原始的な方法でビールをつくっているということを明らかにしています。

 また、コーカサスの南に居住していたアルメニア人の紀元前の酒盛の絵には、ホップとビールの絵が描かれています。

 

 紀元前七世紀から六世紀頃、ネブカドネザル二世治下の新バビロニア王國の話である。記録に残つてゐるといふことは、それ以前から麦酒は“カスタ”を用ゐて醸られてゐたと考へるのが妥当であらう。我われが想像する味はひや香りの為といふより、保存目的の面が強かつたらしい。

「ひよつとして、ホップを使つた方が、麦酒は旨くなるんぢやあないか」

と気がついたのは、十一世紀から十五世紀にかけての基督教の修道院…大雑把に神父さまや司祭さまが、信仰だけでなく科學も受持つてゐた時代と云つていい。ネブカドネザル王から二千年も掛つたのかと呆れることは簡単だが、新しい醸造法が成功するかどうかは、實際に醸つてみないと判らないし、醸り手が成功だと思つても、それが受容れられるかどうかは、更に別の問題である。修道院時代まで麦酒が二千年の命脈を保てたのは、それまでの麦酒が受容れられてゐたからで、たかが何年かの醸造でそれが引つ繰り返せるだらうか。

 甲州勝沼のある葡萄酒藏で聞いた話だと、葡萄酒醸りは、大体二十年前後で新しい技法を験さなくては、従來の手法が旧くさくなるさうで

「但しそれ(詰り新しい醸造)がうまくゆくかどうかは、醸つてみないと解らない」

のだといふ。葡萄酒の場合、醸造の後に貯藏があるから、成否が明らかになるまでに三年とか五年とかの時間が掛かる。さう教へて呉れたのは元工場長で、冗談混りに

「(現工場長に)うまくいかなかつたら、馘首だと云つてある」

と笑つてゐた。いやたつた今、冗談混りと書いたけれど、半分くらゐは本気だつたかも知れない。数百年前の修道院で麦酒醸りに携はつたのがたれだつたかは歴史の常で判然としないが、トライ・アンド・エラーの繰返しだつたのは疑ふ余地がない。もしかして院長が醸造係を

「失敗したら、破門だな、これは」

などと嚇したかも知れず、係は係で

(おれが醸るんだぞ、まちがひなんて無いさ)

と流石に面と向つて口には出さなかつたとして、腹の底で毒づくくらゐはしても不思議ではない。

 さういふ試行錯誤と洗練が現代の麦酒に繋がることになる。詰り高名な“麦酒純粋令(ドイツ語ではReinheitsgebot)”である。西暦で千五百十六年四月二十三日にバイエルン公ヴィルヘルム四世が制定した。麦酒の原料は“麦芽(大麦)とホップ、水に酵母のみとする”といふ内容の一文で、驚くことに現在でも有効である。因みに云ふ。千五百十六年は我が國の元號でいふと永正十三年(時の御門は後柏原帝。足利将軍は義澄、義稙)伊勢宗瑞…後の北条早雲が相模國でのしてくる頃…寧ろ名高い田樂狭間ノ戰に先立つこと五十四年といふ方が、掴み易いかも知れない。余談を續けると北条早雲の領國経営は丹念で、見方によつては“近所の無類に親切で時にお節介な爺さん(この方針は甲斐國の信玄入道が引き継ぐ)”なのだが、かれですら

「酒ヲ醸スニアタツテハ米ト水ニ限ルベシ」

と布告してゐない。それだけ酒醸りの技法が確立してゐたと見ても誤りにはならない筈で、バイエルン公がこれを知つたら、どう思ふだらうか。

 ここで驚くのは、ヴィルヘルム四世の“麦酒純粋令”發布から僅か百年後の慶長十八年、日本に寄港した英國船の積荷に麦酒があつたと記録されてゐる。更に世紀を隔てた享保九年には、オランダ経由の麦酒を

「何ノアヂハヒモ無御座候」

といふ感想も残つてゐるといふ。十七世紀半ばからの百年である。当時の西欧が貿易で沸き立つてゐた傍証のひとつと考へていい。“何ノアヂハヒモ無御座候”とは辛辣な批評だが、坂口謹一郎博士の『日本の酒』(岩波文庫)を参照すると、明治以前のお酒は恐ろしく辛かつたらしく、さういふ味はひに馴染んでゐれば、麦酒は如何にも頼りなく苦い水にしか思へなかつただらう。尤も享保九年から更に百年余り経た万延元年(前年の安政五年に横濱が開港してゐる)になると、“アヂハヒ無シ”と云はれた麦酒が

「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」

と変つてゐる。まあ呑めなくはないねといふ語感か。褒めてはゐないにしても、惡意までは感じられない。麦酒醸りが巧くなつたのか。

 万延元年からわづか二年後(文久二年)には横濱で牛鍋屋が開業する。居留外國人と外國人相手に交渉した商人や武家が、日本で麦酒を嗜んだ最初の人びとであらう。前後関係は兎も角、神戸でも似たやうなものだつた筈で、駐留した英米人が東洋の僻地…横濱も神戸も当時は辺鄙な田舎の港町であつた…に持ち込んだこの時期辺りまでが、我が國麦酒史のプレヒストリにあたると考へていい。ネブカドネザル王に遅れること實に二千数百年、バイエルン公から三百数十年。歴史を感じるなあ。この長いながいプレヒストリは四半世紀ほどの転換期を経て、ヒストリ…詰り日本の麦酒史へと遷るのだが、ここから先を詳しく触れる必要はないでせう。ざつと眺めれば、我らのご先祖は我われが思ふより早く、麦酒が美味いと気づき、またこの手で醸るのだと決意した(ここで明治三十四年まで、麦酒には酒税が課されてゐなかつたのは、注意を払つてもいいでせうか)ことに、感謝の意を捧げたくなつてくる。

 といふよりその感謝の意が、“!”マークの形をとるのではないかとも思へる。外ツ國から入つてきた酒精が我われ…でなければ、わたしの毎日に不可欠な飲みものに到つたのは、熱心で眞面目な醸造家の意志があつたから(お酒や焼酎にそれが無かつたとは云ひませんよ、念の為)だが、それと同じくらゐ、麦酒と麦酒が入つてきて以降の我われの食事が、うまく合致した…國産の葡萄酒やヰスキィのつらさはここにある…ことも挙げておかなくてはならない。そこでこれから、冷たい麦酒を呑まうと思ふ。焼鳥にするか冷奴にするか、それとも餃子か鯵フライかコロッケか。兎にも角にも、一本を呑んでから、考へると致しませう。