閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

345 カップコップ

 カップ酒といふのがある。

 コップ酒といふのもある。

 同じカ行でa音とo音がちがふだけで、それだけなのにえらくちがふ。カップ酒は酒造会社が出してゐる製品、酒造会社が出した製品を我が手またはたれかが注いだ状態がコップ酒。目の前にある結果としての姿は似てゐなくもないが、目の前に出るまでの経緯が丸で異なつてゐる。だからカップ酒とコップ酒は別ものである。

 コップ酒は滅多に呑まない。きらひなのではなく、機会に恵まれにくいだけのことで、第一にひとりで呑む時はお酒自体をあんまり呑まない。第二に知人と呑む場合、大体その知人はお酒に煩いから火入がどうとか精米の度合がああだとかなつて甚だ面倒である。わたしなぞは莫迦ツ舌だからメチルアルコールでなければそれでいいのに、八釜しいひとはそれを許して呉れない。こまる。

 最近は日本酒バーとかいふのがあるさうで、行つたことはない。お酒をバーで呑むのがどうも想像しにくいし、自慢気に香りを樂しんでもらひたいから葡萄酒のグラスでお出ししますと云はれても、要はコップ酒の変形としか思へないし、葡萄酒のグラスで呑まないと香りを樂しめないのかと莫迦ばかしくも思ふ。それで肴が一品八百円とかの値つけだと、そんな場所で呑むのは香りを樂しむ前にお財布の中身を気にしなくてはならず、そこは丸太が貧しいからだと云はれるかも知れず、またそれはあながち間違つた指摘でもないが、葡萄酒グラス入りのお酒も一ぱいと肴ひとつで二千円くらゐになりさうなお店で、ふらつと呑みたいと思へるものか知ら。

 カップ酒にさういふ心配は無い。さういふ形で賣られてゐるし、精々三百円とかそんな程度であらう。だから値札を見て納得すれば買ふだけのことで、品書きの銘柄と値段とお財布の中を深く考慮しないでも済む。と云ふと

カップ酒なんて三級のお酒、呑むに値しやしませんよ」

さう冷笑を浮べるひとが出てきさうで、さう思ふなら呑まなければいい。わたしも積極的には呑まない。尤もわたしが積極的に呑まないのは、お酒に対しての熱意が薄いからに過ぎず、三級だからといふ理由ではない。三級だなあと思へるカップ酒もあるけれど、そんなことを云ひだしたら、壜詰酒で三級ですなあと感じることもある。

 尤もカップ酒の側にも格下に見られる事情が無いわけではなく、お酒に纏はりつく惡い印象を一手に引受けた感がある。廉に大量に生産する為の醸造アルコール添加や加水がそれで(壜詰の廉い銘柄にもその手法は用ゐられてゐるのだが)、鼻に残る臭ひや甘つたるい後くち…総じてまづいと思はせる要素を一部のカップ酒が持つてゐるのは、認めなくてはいけない。慌てて念を押すと、醸造アルコールの添加や加水自体を非難してゐるのではありませんよ。一定の質と量を確保する為の有効な手法である。慎重な使ひ方が求められるのは云ふまでもないが、ごく広い意味でのブレンドと見立てておきたい。

 ヰスキィに目を向けると、ブレンドは特殊な技法ではないと解る。香りのきつい部分、穏やかな部分、舌触り、喉越し…詰り味はひと纏められる要件を幾つかの原酒(サントリーの白州蒸溜所では構成原酒と呼んでゐた)に分担させ、全体の調和を計るわけで、寧ろ巧妙だねと云ひたくなる。ブレンドの担当者はたいへんだらうなあ。

 マルキ葡萄酒での試飲でも、十年だか十五年だかの白を二種類ブレンドしたのを味はつたのを思ひ出した。ヴィンテージが曖昧になるのは感心しないと考へる向きもあるだらうが、その曖昧なブレンデッド・ヴィーネは實にうまかつたから、うまかつた分だけ曖昧ではない。

 思ひ出し序でに書くと、吉田健一のどの本だつたか忘れたが、北陸の料理屋だか旅館だかでそこの主人が吟味したといふお酒のブレンドを堪能した一節があつた。確かめれば本やその一文の題名は判る。併し吉田の文章は妙に後を引く。そこだけを讀んで終らないのは明らかなので、ここでは我慢をする。迷惑と云へなくもない。

 かう書いても厳密なひとは、ヰスキィや葡萄酒や吉田酒と、お酒の混ぜものを同じにしてはいけないと異論を呈するだらう。

「お酒の混ぜものは元來コストを下げるのが目的で、その目的の為に味が落ちるのを諾とした。だからいかんのである。況んやカップ酒なぞ、論の対象にもなりはせぬ」

肩を突つ張つてさう論じられたら、はあとうなづく。それで論者は論者が思ふ正統的で伝統的なお酒だけを呑んでゐればいいとも思ふ。ささやかな反論を試みるなら、わたしは混ぜるといふ技法自体をブレンドと云つてゐるので、その骨組だけを見れば同じである。何をどんな風に混ぜるかは別の課題にしたい。議論の種は色々ある方が酒席を愉しめる。

 議論の種にはちがふ機会に發芽してもらはふとして、地方のそんなに大きくない酒藏がカップ酒を用意することがある。これが中々便利なのは云つておかうかと思へる。単純に便利といつて惡い意味合ひでの合理性を連想されるのは併し困る。

「ではどんな意味合ひなのか」

と訊かれる筈で、未知の銘柄を験し易いのだと応じたい。

「験すのはいいとして、それで解るのかなあ」

と疑念を示すひとは必ずゐるだらうから、その疑念には大掴みには掴めると云はう。

「大掴みとはどんな程度だ」

と云はれたら、旨いかまづいかと口に適ふあはないの見当はつけられませうなと云ふ。

「旨いのと不味いの、口に適ふのとさうでないのは同じぢやあないか」

と文句を云はれれば、旨くても口に適はないのがあれば、旨いとはいへなくても口に適ふのだつてあるのだと云ひかへす。

 たとへば濃厚芳醇な仕上げのもつたりしたお酒は旨いけれど、わたしの口には適はない。混ぜものなり何なりが入つてゐて、少々わざとらしい醸りでも、舌から胃の腑までするりと駆け抜けるやうであれば好もしく思ふ。詰り旨い不味いと適ふ適はないは別々に考へる必要がある。それで未知の銘柄に戻ると、藏で試飲でもしない限り、不見転で四合壜を買ふのは躊躇はれる。まづいのを御免蒙りたいのは当然だが、旨くても口に適はないのだつて敬しつつも遠ざけたい。こんな時にその藏がカップ酒を出してゐればしめたもので、精々三百円かそこらの値段なら、口に適はなくてもかまふまい。まあ有料の試飲と惡くちをたたけはするが、口に適ふかどうか判らない純米大吟醸を、気取つたバーで、然も一ぱい八百円だかで葡萄酒グラスに注がれたので験すのに較べたら、失敗しても笑ひ飛ばせるだけ、遥かに健全であらう。

 お酒に対する眞剣みが足りない。

 と眉を逆立てるひとが出るか知ら。さう叱られたら、少なくともわたしの場合はさうだらうなあとは思ふ。とは云へお酒に対しての眞剣みとは何ぞやと訊き返して、ちやんとした答が示される期待はうすい気がする。それに笑ひながら気らくに呑んだお酒がまづくなるとも考へにくい。肩ひぢに力を入れず、罐詰の鯖や鰯なぞを肴にカップ酒を呑むのは、酒席の在り方のひとつではあつて、その席が特別急行列車の指定席でも問題にはならない。それもまたお酒を眞剣に愉しむ態度ではないかと云へさうで、さういふ愉しみを拒むにひととは呑みたくないなあと思へる。

 さうさう。散々非難してから云ふのも何だが、古臭ひ…訂正、古風な呑み屋で呑むコップ酒はうまい。どうかするとアサヒビールとかキリンビールとか印刷されたコップに注いで出してくるやつ。お酒そのものを味はひたいひとからすると、お酒とは別の液体なのだらうが、ああいふのを舐めながら、おでんをつまんだり、煎りつけた菎蒻を囓ると、そのおでんや菎蒻を含めてうまい。ひよつとして藏自慢の純米大吟醸はそれだけで旨い分、おでんや菎蒻を邪魔にするかも知れず、だとしたらその旨さは畸形的だと云へるのではないか。