閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

354 牛丼の日佛友好

 何の漫画だつたか、男が牛丼屋でめしを喰ふ場面があつた。牛丼屋で喰ふのだから勿論それは牛丼で、懐が暖かい男(本人が云ふのである)は壜麦酒を一本奢り、牛丼の具をつまみにそれを呑む。残つたごはんには紅生姜を打掛け、熱いお茶で茶漬けにして平らげる。そんな場面。

 わたしは牛丼屋で麦酒を呑んだことがなく、おそらく今後も呑まないだらうと思ふのだが、牛丼の具をつまみにするのは、惡い趣味ではなささうな気がする。それなら頭の部分だけ小皿に乗せるやつがあるのだから、そつちにしなくちやあといふ意見は出るだらうし、大体牛丼屋で麦酒を呑むこと自体、感心しないよといふ見立てもあるだらう。そんなのは食べる側の勝手で、外のお客に迷惑でなければかまはないさと反論も出來る。その辺はどうでもいい。

 幅を広げて丼ものの具を麦酒のつまみにするのはどうだらう。天丼、鰻丼、かつ丼は平気さうだが、親子丼、麻婆丼、天津丼は苦しさうである。海鮮丼は食べたくないから外してもいい…まあ前者に属するだらう。当り前で後者は種とごはんの境目が曖昧である。麦酒のつまみなのかどうか、判然としないまま、丼が空になつてしまふ。

 では天丼鰻丼かつ丼ならいいかと云へば、それはそれで微妙である。天丼鰻丼なら麦酒よりお酒が似合ふし、かつ丼はそもそも酒精を慾せず、詰り麦酒のつまみとしては格下と云つていい。尤も牛丼自体が丼界では格下であるから、それはそれで納得がゆく組合せとも云へる。

 念の為に云ふと、格下だから牛丼はまづいといふ話にはならない。廉な牛肉の更に切れ端を旨く食べる工夫が牛丼の形になつてゐるからで、松阪だの三田だの、和牛だの何だのといつた銘柄や分類と無縁であるに過ぎない。ここでたれかの本で讀んだのを勝手に解釈すると、その本では

「フランスの料理は、碌な食べものが無かつたから、どうにかして食べられるところまでしなくてはならない」

といふ必要が元にあつて發達したと書いてある。その辺で獲れる山鳥や犢や、小麦にオリーヴ、何だか解らない魚や貝を食事に仕立てるには、我が國の料理と異なる工夫や技術が求められた筈で、ここで飛躍すると、その日本的な転化が牛丼(或はもつ煮)なのではないか。パリ人やリヨン人なら肉の煮込みに葡萄酒を奢るのに、我われは麦酒なのは、そこにあるものを何とかしないと食べられなかつたのと、そこにあれば大概は殆どそのままで食べられたことの違ひで、卑下や自慢は措いて、ちがふのだなと思つておけば宜しい。

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 さう考へを進めれば、牛丼(持帰り)の頭をつまみに、(安)葡萄酒をあはすのは、日佛友好のささやかな證になるかも知れない。どちらからも反發を招く恐れは否定しないとして、實際のところは試してみないと判らない。麦酒相手だと温泉卵は邪魔になるが、(安)葡萄酒だつたらその辺りも何とかなりさうに思はれる。