閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

356 生煮え鮪を食べる為

 偶さか手にした本に、新橋茶漬けといふのが載つてゐた。何なのかといふと

 要するに、丼にご飯を入れた上に鮪と海苔を載せて胡麻を散らし、醤油と山葵にお茶をかけたもので(中略)、喉が乾いているのに辛いものが欲しくて、お腹も空いているという、一晩飲み廻ったあとの体の状態から起る欲求を全部満してくれる代物(後略)

なのださうで、贅沢なのだか質素なのだかよく判らない。第一ひと晩呑みまはつて、喉が渇くのはいいとしても、辛いものを慾するほどの空腹を感じるものなのか。併し前後を含めて讀むと確かに美味さうで、美味さうだと思ひつつ、鮪と海苔と醤油と山葵があれば成り立つのなら、家でも作れさうかとも考へ、家で作れる程度ならお店で出す必要はなくなるから、その辺りの具合が、そのお店でしか無理な食べものなのだらう。今でも食べられるのかどうかは知らない。

 ここで連想されるのは治郷松平不昧公の鯛めし…簡単に云へば新橋茶漬けの豪華版で、鯛のそぼろと玉子と大根おろし、海苔と胡麻と山葵と葱を出汁で頂くのだといふ。豪華版と書いたが、不昧公の領地は松江である。あの辺だつたら海が豊かだから鯛の一匹や二匹、釣り上げるのはさして六づかしい註文では無かつたらう。さう考へれば贅沢とは云ひにくい。但し松江藩主は大茶人でもあつたから、鯛や出汁は吟味を重ねたと想像するのも容易で、その意味で豪華と呼ぶのは…勿論茶人の厭みと取つたとしても…、誤りになるまい。旨いだらうなとは思へるけれど、作法を八釜しく云はれさうな不安が残る。

 かう書いて新橋茶漬けでも鯛めしでも旨さうなのに、海鮮丼にはさういふ感じをまつたく受けないのは、不思議だなあと思ふ。いや不思議だなあと思ふのは間違ひだつた。乱暴を承知で云へば、熱いごはんがお刺身を温め、お刺身がごはんを冷ましにかかる海鮮丼を、どんな顔をして食べればいいのか。最初からごはんを冷ましたのもありますと云はれても、丼ものでごはんが冷たいのは論外で、どちらにせよ食べないに限る。

 茶漬け(とひと括りにするが)の場合、その辺の心配は不要である。最初から熱いお茶で鮪や鯛を生煮えにするのが狙ひなのだもの、こんな当り前の話もない。生煮えの鮪や鯛が美味いのかと云はれたら、さういふ食べものが成り立つのだから旨いに決つてゐる。水炊きで鰤のお刺身をさつとくぐらせても旨い。それに茶漬けなら目の前に出された器を褒め、お茶(または出汁)の香りを褒め、盛られた種の姿を褒めなどとやつてゐる暇はない。お箸でも匙でも操つて、素早くぞろつぺえに啜り込んでこそ、あらまほしい礼儀であり態度である。わたしのやうな田夫野人には丁度いい。…と書いて松江の茶人が一心不乱に鯛めしを啜る姿を思ひ浮べると、何となく愉快な気分になれる。

 ではそこで、手早く新橋茶漬け(擬き)を試すとして、マーケットで半額になつた鮪と、チューブ入りの山葵…半額だつたのが鰹なら辛子の方が似合ひさうだ…、棚にあつた焼き海苔と胡麻で、誤魔化せる…想像の糸口にするくらゐは出來るだらうか。とは云へ不器用に糸口を探すなら、新橋でお茶漬け屋を探す方が余つ程ましなのは、想像力を働かすまでもない。