閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

358 峻別をしないといふこと

 わたしの周辺には酒好きがゐる。この場合の酒はアルコール飲料全般を指してゐる積りだが、大体は日本酒に落ち着く。こちらも嫌ひではないけれども、深くどうかう云へないので、お酒(今度は日本酒の意)の話題が深まると尻がもぞもぞする。尤も話題が葡萄酒やヰスキィや泡盛焼酎になつても、もぞもぞは同じなので、要するにその程度なのだと思つてもらつていい。

 不思議なのはそのお酒好きが、つまみについてはまことに不熱心なことで、どこかの港町で喰つた鯖の肉の漲り具合や、どこかの山奥で供された豚肉の脂の香ばしさ、さうでなくても偶さか入つた呑み屋の焼き鳥や煮込みの巧妙な味はひについて耳にしたことがなく、精々が蕎麦屋の評判程度だから詰らない。蕎麦屋が詰らないのではないから、そこは念を押す。尤も蕎麦屋の鴨や玉子焼きはそこまで旨いものではない。

 新潟や秋田や富山の何々といふ銘柄が宜しかつたといふのは、さういふことに鈍感なわたしにとつては有り難い話なのは云ふまでもないとして、わたしが気になるのはそこで何をつまんだかといふ点で、村上川の鮭や鰰の湯上げ、蛍烏賊の一夜干しでなくてもいい。何といふこともない種々のお漬物や煮浸し、酢のもの。焙つた鶏肉や玉葱とお祭りのやうなサラド。或は様々の燻製にハムやソーセイジやチーズにピックルス。さういふ話がわたしの周辺から聞こえないのは、寧ろ奇怪な情景といふべきか。

 何故だらうと考へるに、半分くらゐは酒…もつと云ふと藏だか蒸溜所に原因がありさうだ。それだけの旨さを追究しすぎて、追究自体は惡いと云へないにしても、酒精は本來、食べものの隣にあるのが自然なのを忘れてゐるのではないかとも思はれる。薄茶でも紅茶でも烏龍茶でも、それで食事をしたため、さあ満腹したねと酒壜(と焼き海苔かチーズの欠片)を取り出すのはをかしい。さういふ呑み方が望ましいのはヰスキィかブランデーくらゐで、例外は認めるが、例外はあくまで例外である。

 もうひとつ考へられるのは、まさかと思ひつつ書くのだが、わたしの周辺は肴やつまみを重視してゐないのではないかといふ疑惑で、そんなわけは無い筈である。どこそこの天麩羅とか、別のどこそこでのサンドウィッチとか、頂き物のベーコンが美味かつたといふ話は耳にする。従つて食べることに無関心と云へはしない。となると(ここで再び“まさか”を用ゐると)、まさかわたしの周辺では、呑むことと食べることを峻別してゐるのか知ら。だとしたら随分と詰らない…訂正、勿体無い話で、第一級の酒に気取つたつまみしか置いてゐないのと、酒は並みでもつまみで樂しめるのなら、わたしは断然後者を撰ぶ。もしかすると、かういふ嗜好は少数派に属するのだらうか。何だか不安になつてきた。