閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

373 玉子焼きのこと

 卵を二個か三個。

 塩と牛乳を少し。

 焼き上げは堅め。

 

 といふのが、わたしにとつての玉子焼きで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは、盛大な批判が寄せられさうだが、さういふ玉子焼きに馴染んでゐるのだから、仕方がない。

 

 だから初めてあまい玉子焼きを食べた時はびつくりした。お菓子のやうで、そのくせ大根おろしと薑が添へられ、莓のショート・ケーキに紅生姜をあはせてゐるやうだと思つた。

 

 かう云ふと、またしても我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から、盛大な批判が寄せられるだらうと不安になるが、實際さう感じたのだから仕方がない。この手帖は正直と率直を旨とする。

 

 あまい玉子焼きは兎も角、玉子焼き自体は大の好物で、ごはんにこれとお味噌汁とお漬物があれば、食事は完成する。細かいことを云へば、お椀種には豆腐。お漬物は胡瓜と白菜がいい。

 

 そこで問題は玉子焼きそのものになる。玉子だけで焼くのか、さうでないのか。さうでない方は刻んだ韮や葱を混ぜこんだやつ。尤もこの場合、やはらかい焼き上げの方が旨さうな気がする。

 

 といふより、やはらかくて、葱韮を混ぜた玉子焼きは、ごはんのお供よりお酒の相方に似合ふのではないか知ら。蕎麦屋で教はつた所為もあるのだらうが、あれは冷や酒の肴に宜しい。

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 どうせ丸太は呑むのだから、韮葱入のふはふはな玉子焼きがいいんぢやあないの、と笑はれるかも知れない。その指摘の正しさは一応認めておくが、實態はもう少しややこしい。そのややこしさは堅めに焼かれた玉子焼きが、わたしにとつてはおかずだつたからで、肴で味はふのとは付きあひの長さがちがふ。併し堅焼き玉子焼きとふはふは玉子焼きは別ものといふ感覚もあつて、どちらがいいのかの順番をつけにくい。無理をしてどちらかに軍配を上げる必要もないから、はふり出してゐるけれども。

 『鬼平犯科帳』に、長谷川平藏が韮入の玉子焼きで朝めしをしたためる場面があるさうで、残念ながら記憶にない。もしかすると讀んでゐないのか。まあそこは措く。大事なのは、かれの時代には既に、玉子焼きがあつたらしいこと。ご存知でせうが、平藏長谷川宣以は實在の人物である。若い頃に惡所で散々遊び、後年に火附盗賊改メ方の長官を務めたのは史實で、その五十年の生涯はほぼ十八世紀の後半と重なる。詰りその時期には少くとも旗本の朝食に出せる程度に、卵とその調理法は普及してゐたといふことか。ただ平藏の食卓に出たのが、今で云ふ厚焼きだつたか、それとも煎り玉子だつたのかは、はつきりしない。

 

 はつきりはしないが、江戸期の後半、卵料理に相当の種類があつたのは確實である。十八世紀末(平藏の死後である)に“卵百珍”…正確には『萬寳料理秘密箱』の“卵之部”が出版されたからで、有名な黄身返しもこの本に載つてゐる。尤も献立の一覧(百珍ではあるが全百七種)を見る限り、厚焼き玉子や煎り玉子は無い。百珍と称するくらゐだから、ありきたりは省く編輯方針だつたのだらうな。百珍で實際に食卓に供されたのは果して幾品だつたかと思ふのは、意地の惡い想像。

 変り種や風変りな調理が、変り種や風変りのままなのは、材料の入手が六づかしいとか、料る手順の面倒さとか、あるだらうが、要するに我われの平凡な舌に適はない…が極端なら、適ひにくいのが原因である。“卵百珍”に載つてゐる百七の料理をすべて出せるお店があるとして、註文はおそろしく偏るだらうなと思ふ。寧ろトルティージャなぞが無いのかと不満が續出しさうな気がする。念の為に云へば、トルティージャ馬鈴薯や菠薐草や玉葱やベーコンを使つたスペイン式のオムレツ…玉子焼きで、何べんか作つてみたことがある。成功した試しは無い。

 

 話がやつと玉子焼きに戻つてきた。尤も西洋式の玉子焼き…オムレツには縁が薄い。ごはんのお供にはしにくいからで、あつちの玉子焼き…いやこの場合はオムレツか…は、メイン・ディッシュに近い気がすると云ふと、スペイン人は笑ふだらうか。併しかれらはお米を食べるけれど、トルティージャをおかずにパエリヤを食べはしないでせう。ここでたれの随筆だつたか、お酒にオムレツといふ一節を讀んだのを思ひ出した。成る程。“東洋美人”や“鳳凰美田”ならきつと似合ふだらうから、トルティージャも葡萄酒やお酒にあはすと旨いにちがひない。

 たださうは云つても、玉子焼きは矢張り、しつかり焼き上げたのを、ごはん…海苔巻きのおにぎりもいい…と一緒に出してもらふのが一ばんいい。この“いい”は感情的なそれで、嬉しいとか旨いとかに近い。かういふ簡素な食べものは、土地柄や家庭で色々にちがふものだから、どんな風なのをいつ食べたかで、その後の嗜好が大体定まる。後になつて實はこつちが本筋ですと云はれても、成る程わかりましたと路線を変更するのは困難だし、さらつと変更出來るとしたら、その食べものに対して、腰を定める機会がなかつた(わたしの場合は蕎麦がさうか)、と考へてもいい。尤も玉子焼きにあやふやな態度を取れる筈はなく、詰りさういふ食べものが玉子焼きなのだと云つていい。