閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

384 眞面目に考へたこと

 不意に、饂飩について眞面目に考へた事が無いなあと気がついた。家でうがくし、カップ饂飩も食べなくはないし、偶には外でも啜るのに、漠然とああ饂飩だねえと思ふきりである。不眞面目な態度ではなからうか。

 四半世紀くらゐ前のわたしは、饂飩と云へば大坂風以外に目を瞑つてゐた。目を瞑るのにはつきりした理由があれば、まだ云ひわけの余地も残されてゐるだらうが

 「饂飩いふたら、大坂に決ツとる」

と決めつけてゐただけだから、我ながらまことに狭量であつた。反省してゐます。

 今はさうではない。東京風でも讃岐風でも稲庭や建長寺式もうまいと思ふ。大坂…近畿人からは糾弾される恐れもあるが、大坂饂飩がまづいと云ふわけでなし、第一うまいと思へる饂飩の種類は、色々ある方が嬉しいぢやあないか。

 

 小麦を挽いて水で捏ねて茹でたり蒸したり焼いたりするのは、特に珍しい調理法ではない。麺麭は小麦一族だし、スパゲッティも同根と云へる。詰り時間的にも空間的にも、小麦は一大帝國の偉容を誇つてゐて、日本での扱ひの低さ、小ささは寧ろ例外ではないかと思へる。

 不思議やねエ。

 と首を傾げる必要はなく、この島國には米があつた。手元で正確な数字を挙げられないが、同じ面積で収穫出來る米と小麦を較べると、米の方が圧倒的に喰へる数が多いさうで

 「今さら小麦でもなからうに」

農民がさう考へたとしても、異議を立てなくていいでせう。小麦の名誉の為に云ふと、五穀のひとつではあつたから、まつたく無視されたわけではありませんよ。

 

 小麦を喰ふには粉砕が必要である。

 粉砕するには道具が必要でもある。

 遠慮なく云へば、我われのご先祖の頃、さういふ道具を造り、また使ふのに当時の日本は余りに後進國であつた。

 空海和尚が伝へたといふ神話から、一応は信頼してよささうな記録まで、五百年余りの開きがあるのが間接的な證拠。記録されたといふことは、それ以前から饂飩…小麦の粉を紐のやうに練つて、蒸したか(熱い)汁で食べる習慣は(少くとも一部では)あつたと考へていい。

 といふことは、小麦を料ると旨いと實感した集団があつた筈で、かれらが執念深く、工夫を繰返したと想像しても許されるのではなからうか。この際だから許してもらひたい。

 尤もどこがその執念深さをみせたかまでは判らない。そこで讃州を想像するのは安直呼ばはりされるかも知れないが、あすこは肥沃な土地だつたから(現代はどうなのだらう)、米の序でに小麦を育てたんですと云はれても、難癖はつけにくいか。

 

 事の眞偽は兎も角(どうしたつて判らう筈はないもの)、姿や味つけを変化させつつ、饂飩が現代にまで生残つたのは事實である。

 小麦を挽き捏ね、紐状にする。

 出汁を取り、つゆを作る。

 紐にした小麦を茹で、つゆとあはせる。

 かう書けば簡単だけれど、その為の道具が必要なのは触れたとほりだし、たつぷりの水、それから火を使ふ設備も要る。燃料代だつて高くついたに決つてゐる。と考へるに、饂飩はひどく贅沢な食べものだつたと想像出來る。古風に云へば“ハレ”の日のご馳走。いいですね。収穫の後の神事で熱い饂飩が振舞はれたのか知ら。

 その饂飩が“ケ”…即ちありふれた食べものになつたのは遅くとも江戸期に入つてからで、座頭市の映画では、勝新太郎が賭場の隅で饂飩を啜る場面があつた。あのひとの喰ひつぷりは、まつたく旨さうだつたな。ああいふのも才能なのだらう。

 

 種ものをあしらひだしたのは、いつ頃からだらうか。座頭ノ市が盛大に啜つてゐたのは、その食べつぷりから、素饂飩かと思へる。流れ者のやくざだから、懐が寒かつたのさと考へたつていいけれど、饂飩屋の懐だつて、あれこれの種ものを用意するほど豊かだつたとは思ひにくい。

 なのでいつ頃といふ詮索はさて措くとして、ほぼ確實と思ふのは、種ものに熱心だつたのは大都市の饂飩屋だつたにちがひない。工夫と眞似と取捨撰択が繰返され、幾つかのうまい種に纏まるには、競争といふ下地が不可欠になる。そんな下地を持てるのは人の流入があつて、新奇なものに敏感で、お金が動く大都市以外にない。

 江戸と大坂だらうな、矢張り。

 京にはさういふ柔軟さが感じられない。多分にわたしの偏見が含まれてあるから、信用してはいけませんよ。念の為。

 各地からもたらされた目新しい食べものや調理法を貪慾に取込み、取込み序でに饂飩に入れ

 「これあ、旨い」

と云はれたのが、うまい種として纏り、現在に繋がつたと考へていい。

 

 基本中の基本と呼びたいきつね。

 その変種であるきざみ。

 蝦夷地の工夫を取入れたおぼろ。

 蕎麦の応用だらう海老天麩羅。

 月見があり肉があり天かすがあり、大根おろしが生醤油が味噌煮込みが、笊が釜揚げが建長寺汁があり、焼き饂飩やカレー饂飩があつて、まつたく豊穣と呼ぶ外にない。厭みを云ふと、この豊穣に較べれば、蕎麦の種ものなんて、天麩羅は例外にしても荒野に等しい。

 「すりやあ君ね」

と江戸好みのひとが云ふかも知れない。江戸人は蕎麦それ自体を洗練させてきたんだからさ

 「同列に語られちやあ、困るよ」

その指摘は一応正しいし、蕎麦をただの備荒食からうまい食べものまで仕立てた江戸人に、敬意を表するのに吝かではない。吝かではないとして、饂飩がそれ自体の洗練を経てゐないわけでなく、寧ろその完成があつたから

 「もつと旨い食べ方が、あるンとちがふか」

といふ方向への慾求が生れたのだと考へるのが、實態に近いのではありますまいか。蕎麦派の顔を立てつつ云へば、蕎麦は簡潔へ、我らが饂飩は豪奢にそれが發展した…盛り蕎麦に対して鍋焼き饂飩を思ひ浮べれば、説得力もあるでせう。實際、玄冬の鍋焼き饂飩は花やかな上に旨いもので、時代考證を無視したら、桃山振りの洗練と云へなくもない。

 

 かういふ我が儘勝手が許されるのは、確かに大都市の特権であらう。その特権の延長に贅沢があり、贅沢の先に洗練があると気づいた時、洗練は本來、時間が掛かるものなのだと納得も出來る。