閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

404 焼き鳥を喰ふべし

 我われが焼き鳥を喰ふべしと思ふ時、その鳥は鶏の筈で、鳥はbirdを、鶏はchickenを指す。以下その積りで書く。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもその積りでお願ひしますよ。この稿では、全国やきとり連絡協議会の[やきとりの歴史]

https://www.zenyaren.jp/yakitori/encyclopedia/history

を主に参考としつつ、その他の資料も参照して書き進める。何だか大上段に振りかぶつた感じもするが、かういふハツタリはこの手帖で頻用する手法だから、咜られる心配はしなくてもいいでせう。

 最初に気になるのは、上の協議会が"やきとり"と平仮名表記を採つてゐる事で、鶏の字、chickenの意を避けた気配が感じられる。不思議である。

 鶏の原種はよく判つてゐないらしい。東南アジアの鳥がご先祖で、中國辺りで家畜化されたといふ説がある。日本に持ち込まれたのは紀元前二世紀頃と考へられてゐるさうで、これは彌生時代。未だ文字による記録は生れてゐない。ここで鶏に関係無くこの時代の有名人を挙げると

 劉安

 →前漢の貴族。劉邦の孫で『淮南子』の著者。

 司馬遷

 →前漢の歴史家。『史記』の著者。

 スキピオ・アフリカヌス

 →共和制ローマの将軍。"ザマ会戰"の勝者。

 ハンニバル・バルカ

 →カルタゴの将軍。"ザマ会戰"の敗将。

 ルキウス・コルネリウス・スッラ

 →ローマの将軍。内乱を平らげた獨裁官。

まことに豊かな歴史の時代が既に重なつてゐて、かれらが当時の日本を見たら、蕃族以外の形容は浮ばなかつたらう。上記協議会が記すところだと、その蕃族…訂正、彌生日本で

 

 鶏は飛ぶ力が弱くて捕えやすく飼い馴らしやすいことに加え、夜明け前に規則正しく鳴くことが時計の代わりに用いられた。

 

とある。食用ではなかつたらしい。更に引用を續けると、数百年ほど下つた古墳時代になると

 

 鶏を形取った埴輪「鶏形埴輪」が古墳の副葬物となった。(中略)「鶏形埴輪」は、鶏が生活に身近な存在であったことを示すとともに、葬送に重要な役割を担っていたと考えられる。鶏は、夜の世界から朝の世界へと人々を導く鳥であり、闇を払う力を持つと信じられていた。水鳥を形取った「水鳥形埴輪」もある。見知らぬ土地から飛来する水鳥は「魂を運ぶもの」と考えられ、悪霊を防いで死者の魂を浄化すると考えられたようだ(中略)規則的な朝鳴きや飛来といった鳥の行動は、当時の人間たちにとって不可解なものであり、神の思し召しによる行動と受取られた。鳥はあの世とこの世を結ぶ存在の「聖鳥」となり、死者の霊を守るために「埴輪」へと姿を移した。

 

さうである。遺跡からの出土が少量である点を重く視て(また当時は随分小さな種類でもあつたらしい)、鶏の利用は鳴き声で朝を報せる"時告げ鳥"の役割が主だつたのではないかといふ説もある。どうも家禽ではなく呪具に近い扱ひだつたらしい。食べたとしても仕方なくだつたのか。

 併し仕方なくだつたとしても、鳥自体を食べてゐたのは確實で、七世紀の半ば過ぎに天武帝が"肉ヲ喰ツテハナラヌ"といふお触れを出してゐる。牛馬、狗、猿、それから鶏。ざつと百年前に佛教が伝はつてゐるから、それかと思つたが、だとすると肉食全般を禁じなかつた理由が判らない。この肉食禁止は耕作期の季節限定でもあつたらしい事も含めると、佛教的な禁忌の感覚ゆゑの詔ではなかつたと考へていい。

 牛馬は耕作に欠かせず、

 狗猿はひとに親みのある動物で、

 鶏は前述が示す通り聖鳥。

 猪や鹿の類が禁令に含まれなかつたのは、耕作に使はない上に親みが感じられるわけでもなく、聖獸でもなかつた(鹿が神使と看做されるのはもつと後になつてから)といふ単純な、単純が惡ければ實利的な事情に基づいた結果だらう。更に云へば当時の農耕民なぞ、殿上人にすれば自分たちとは異なる生きもの…税を搾り取る対象に過ぎなかつたに相違なく

 「あの奴輩が牛馬を喰らつた挙げ句に、税収が減るのは我慢ならん」

天武があからさまにさう考へたかは兎も角、その気配は濃厚に匂つてくる。兵隊と同じ糧食を喰つたカルタゴの勇将に比して、器の卑小さがはつきりするなあ。尤も地下人はしぶとい。こつそり喰ふのは止めなかつたのは明らかで、七十年余り後、聖武帝の御世に同じ意味の詔が出されてゐる。曰く

 

 馬牛ハ人ニ代リテ勤シミ労メテ人ヲ養フ。茲ニ因リテ先ニ明キ制有リテ屠リ殺スコトヲ許サズ。

 

語気が荒くなつてゐる。動物愛護の気運が高まつたからでないのは勿論だし、隆盛期の奈良佛教(半世紀余り後、空海密教最澄の天台が入ると、一ぺんに没落するのだが)が影響したとも考へにくい。経済的な、現實的な事情が聖武の口調を厳しくしたのだらう。鶏の側に立てば

 「〆られる心配をしないでいい」

時代だつたわけで、それは實に千年近く續く。尤も鳥食自体まで忌まれたのではなく、野鳥…ことに雉子がその代表格をつとめたらしい。協議会によると(表記と仮名遣ひはこちらで改めた)雉子を用ゐた中世の…鎌倉期から室町期にかけて…料理は主に

 

 干鳥

 →雉子の肉を塩をつけずに干して、削つてたべるもの。

 膾

 →生で食べる刺身。身を造りにし、醤をつけて食べた。荒巻して置いてゐた鳥を湯に入れ、さまして薄く引き蓼酢で食べることもあつた。

 焼物

 →身の中に少し赤身が残るように水をかけ、塩を振つて焼く。女性には直垂、男性には鳥の足を出す。

 串焼き

 →鳥の直垂を筋交ひに切り、串に刺してあぶる。中の汁を押し出して胡桃をかけて乾けばまたあぶる。

 

があつた。やうやく"串焼き"の文字が出てきて、長い道のりだつたなあ。ここで十七世紀から十八世紀にかけて、江戸期まで時間を早送りしませう。この頃に到つて鳥肉の天下は雉子から鴨に移る。但しこれは下層階級の話。鳥肉の格附けで云へば鶴が最上位だつた。どんな調理でどんな味なのか想像が六づかしいし、そもそも喰へるだけの肉を蓄へてゐるのかも判らない。孔雀の舌だか尻尾だかを珍重したローマ貴族にやつと追ひつけたと思ふのは皮肉に過ぎるか知ら。

 下層の更に下…貧乏旗本の次男坊やら三下奴やらは鴨にも手が届かず、かういふ連中は軍鶏を喰つた。"時告げ鳥"の役割は残つてゐただらうが、神聖性は随分と薄まり、時計代りだつたらしい。呪術性が無くなつたのを悲しむべきかは兎も角、その軍鶏料理が洗練された結果、火附盗賊改メ方の長官が軍鶏鍋に舌鼓を打つあの旨さうな場面が描かれる事になつたのは確かである。禍福はあざなへる縄の如し。とここまで書けばきつと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は或は首を傾げ、また驚くだらう。

 「今これだけ馴染みの鶏なのに、千数百年、我われのご先祖は(少くとも)(積極的に)食べてはゐなかつたのか」

まつたく同感で、わたしも驚いた。天和二年頃(十七世紀後半)の『合類日用料理抄』には

 

 鳥を串に刺し、薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申し時分、醤油の中へ酒を少加え、右の焼鳥をつけ、又一変つけて其の醤油の乾かぬ内に座敷へ出し申し候。

 

とあつて、現代のたれに近い焼き方なのだが、焼くのは鴫、鶉、雲雀、山鳥、鵯、鶫、雀に雉子などで、鶏が本格的に天下を取るのは實に明治以降。鍋にする軍鶏を捌いた後の臓物を串で焼いたのが、直接の原形…もつ焼きから始まつたといふ。下層貧民の食べものですな。そこから急激に地位を高めたのは、ごく大雑把に肉食への禁忌感が薄れた事(明治帝が朕ハ是ヨリ洋服ヲ着テ肉ヲ喰フと宣したのもあつたと思へる)と、文明開化といふ流行が後押しをした結果と見て、概ね誤りではない筈である。それが中層辺りまで拡がつた…臓物ではなく鳥肉自体を串焼きにする手法は、早くて大正の終り頃の登場と思はれる。この辺から鳥が鶏になつたのではなからうか。臓物串焼きに較べれば、高級だつたらうな。

 ぐつと品下つたのはブロイラーといふのか、鶏肉の大量生産(聖鳥に礼を失する厭な響きだなあ)が實用化されて以降と考へていい。ちよいと贅沢な酒の供が

 「いつでもつまめる廉なつまみ」

へと変化したわけで、わたしが焼き鳥で呑むのを覚えた昭和末期は、この廉価なブロイラー方式が主流だつた気がする。あの当時は今よりもつと食べものに無知だつたし、量は質に勝ると思つてもゐたから、その程度の店でしか呑まかつたのとも云へる。大体は盛合せ。ねぎまと股と手羽先とつくねと皮。貪り喰ひはしたけれど、どこで喰つた何が旨かつたか、丸で記憶に無いのは、その間接的な證拠であらうな。

 かういふ云ひ方をすると、焼き鳥屋の眞面目な親仁は怒りだすだらうが、調理としては至極単純である。鳥…いやもうここでは鶏と書くのが正確か…を小さく切つて串に刺し、直火で焼けばいいんだもの。これだけならば、わたしにだつて出來る。併し小さく切つた鶏を串に刺して直火で焼けば、焼き鳥一丁出來上り…とは云へない。サヴァラン教授も

 「肉を焼く才能は天賦である」

と教へて呉れる通り、火の扱ひ方や焼く時間に順序、味附けの技倆があからさまに出るのが焼き鳥で、股一本を取つてもちがひは直ぐに判る。要するに生焼けではなく、焦げつかせもせず、潤びながらも火の通つた具合に焼きつつ、塩胡椒やたれ、或は味噌を按配したのが旨い。教授の天与説は極端かも知れないにしても、修錬や経験は欠かせないのは疑念の余地が無い。別に舌が優れてゐると自慢する積りではなく、逆にわたしのやうに鈍感な舌の持ち主でも気がつけるのだと理解してもらひたい。さういふ技倆は備長炭を使つてゐますとか、朝に捌いた新鮮な肉とか、撰び抜いた塩とか、惹句を並べ立てられても判るものではなく…そこまで謳ふなら、下手は打てないだらうと想像は出來るとしても…、實際に旨いと思へるかどうかは、食べてみてからの判断になる。それで得心した焼き鳥を明日香の御陵に供へてみたいと思ふ事があるのだが、不敬の謗りを免れない態度だらうか。全国やきとり連絡協議会はこの点について、礼儀正しく沈黙をしてゐる。