閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

407 焼酎の格

 ブランデーが葡萄酒などの果実酒を蒸溜したもの、ウィスキーがビールを蒸溜したものであるのと同じく、日本の酒やその醪を蒸溜したもの

 

 焼酎について、坂口謹一郎博士は『日本の酒』(岩波文庫)でかう書いてゐる。すつきり、頭に入つてきますな。いい焼酎のやうだ。巻末の年譜によると坂口博士は明治卅年の新潟生れ。東京帝國大學農學部卒業。農林省食糧研究所所長(昭和十八年就任)を経て、昭和廿八年に東京大學応用微生物研究所所長就任。平成六年に死去とある。その中で注目に値するのは、昭和卅三年に歌集『醗酵』を刊行とあつて、『日本の酒』の冒頭に十三首が収められてゐる。正直なところ、あんまり上手とも思へないが

 

 うまさけはうましともなく飲むうちに醉ひての後の口のさやけき

 

は本文中にある"さわりなく水の如くに飲める"お酒の基本的な性質を卅一文字に巧く纏めてゐる。後に續く

 

 おいしいクリームを含む牛乳が特に美味を感ぜず、太陽の光線が、内に七色の華麗を藏しながら、何の色も示さないのと同じである。

 

といふ譬喩には及ばないにしても、かういふ文學的な技法を用ゐるのは大した事(牛乳云々には反論が出るだらうけれど)ですよ。醗酵といふひとの手では如何ともし難い現象、お酒といふ多分に主観が混ざる飲みものを相手にすると、科学的な用語だけで文章を書くのは六づかしいだらうとは想像出來るが、一方で元々文學志向のあつた青年が醗酵の道に進んだとも考へられる。青雲の志、讚すべし。

 

 焼酎に戻りませう。

 この酒精は大きく連續式蒸溜(甲類)と単式蒸溜(乙類)に分けられる。無味乾燥な分類だなあと思ふけれど、官僚の言語感覚に期待してはならない。『日本の酒』を参照しつつ云ふと、甲類は"芋や雑穀、廃糖蜜をパテント・スチルといふ大規模な蒸溜機で"蒸溜を繰返し、無臭の純アルコールにしたもの。ウォトカと同類。後者は"米や黍や稗、栗、甘薯、麦や黒砂糖を使ひ、小規模なポット・スチル蒸溜機で"造つたものを指す。蒸溜は都度、一回限り。坂口博士は乙類、中でも麦と黒糖の焼酎を

 

 後の二者はさしずめ日本のウィスキーでありラムであるといってもよく、またそれらの南方諸国は日本のスコットランドともいえよう。

 

たいへんに褒めてゐる。念の為に云ふと甲類…純アルコールについても博士は、ホワイト・リカーとして(ウォトカに張り合へるくらゐ)發展さすのがよいとも記してゐるから、決して一方的な言辞ではない。

 

 パテント・スチルやポット・スチルの厳密な仕組みはこの際目を瞑る。焼酎は原料と蒸溜法で呼び名…といふより味はひが丸で異なるのだと大掴みに掴んでおけばよく、併しその"丸で異なる"味はひが問題。甲類はそれだけで呑まないのが原則で、親戚のお祖母ちやんが漬けた梅酒や居酒屋の檸檬サワーを連想すればよい。乙類…"本格"焼酎と呼ぶ向きもあるが、この稿では甲乙で区別する…は水割りかお湯割りが宜しい。詰りうまい。体験的に云ふと、"焼酎好き"が云ふ焼酎は乙類を指す一方、"どうも焼酎はなあ"と云ふひとが指すのは、甲乙両方に跨がつてゐる感じがする。甲類だとただの呑み過ぎか下手糞なカクテル擬きの所為だが、乙類相手だと、いきなり癖のある銘柄を口にした可能性がある。

 「あのきつい癖が堪らんのだよ」

と自慢気に云ふひとは、獨特の癖を解つてゐるんだぞと見栄を張つてゐるだけの事だから、信用してはいけない。断定出來るのは若いころのわたしがさうだつたからで、グレンフィディックアードベッグ…どちらにも特有の泥炭臭がある…を呑んだのは、見栄が第一の理由だつた。實際にその泥炭臭を含め美味いと感じて呑めるに到つたのは、何年も経つてだつたと白状しておかう。要は美味い酒だと思へる範囲が、齢を重て広がつた結果で、これ計りは何杯か、または何杯も呑み、失敗をしなくちやあ身につきやしない。

 

 何の話だつたか知ら…さう、焼酎。好ききらひがはつきり分かれ易いのは事實として、その分岐点には注意を払ふ必要がある。葡萄酒が好きでないといふひとがゐたら、きつと

 「貴女は何を呑んだんです」

と訊ねるでせう。それでイベリヤのフルボディの渋みが適はなかつたと云つたら

 「モーゼルを試すのは如何です」

なんて提案のひとつもするにちがひない。ところが焼酎で同じ發言が出ても、ははあ成る程と呟くくらゐが精々なのはどうしたわけか。

 「檸檬サワーくらゐしか、呑めないんです」

 「黒糖の水割りは、滑らかな口当りですよ」

とか何とか、話が広がらない。焼酎はどう転んでも焼酎だらうとどこかで合意が成り立つてゐるのかと疑ひたくなるくらゐで、まつたく不思議である。

 思ふに我われはお酒…詰り日本酒に較べて焼酎…蒸溜酒への馴染みは薄い。尤も南國は例外で、鹿児島は伊佐の郡山八幡神社には

 

 其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ被下候

 何ともめいわくな事哉

 

といふ落書きが遺されてゐる。現代語風に(意)訳すると、この仕事の依頼主はたいへんなけちん坊で、一ぺんも焼酎を呑まして呉れなかつた、まつたくひどい話でごわす、くらゐのところか。この落書きの凄いのは"永禄二歳八月十一日"に"作次郎と靏田助太郎"が書いたと明らかな点で、今のところ焼酎の文字が確認出來る最古の例であるらしい。永禄二年は西だと千五百五十九年。織田信長(当時廿五歳)が尾張をほぼ手中に収め、駿河今川義元の動向に神経を尖らせてゐた時期に当る。その時期にかういふ怨み言…寧ろ厭みを書き遺した(神罰も畏れずに!)といふ事は、その頃の薩摩健児は既に焼酎を愛飲してゐたからにちがひない。併し薩摩人の熱狂は全國津々浦々まで伝はりはしなかつた。詰り我われのご先祖の多くは蒸溜酒ではなく、醸造酒に舌鼓を打つた事になる。

 何故だらう。と不思議に思ふまでもなく、お酒自体が玩味に足る飲みものだからで、そこからもうひと手間を掛ける必要が(少)なかつたから云つてもいい。南國人がひと手間掛けたのは、酒醸りの要である温度の管理が(当時は)六づかしかつた所為ではなからうか。蒸溜は唐土渡り…おそらく琉球から奄美を経由して…九州に伝はつた手法と思はれて

 「こげな旨か水バ、呑んだコツがなか」

作次郎と助太郎がさう云つたかどうかは知らないが、かれらを歓ばせ、土壌も造るのに適してゐたのは間違ひない。尤も本州人が馴染めるまで北上はしなかつた。呑み助文化…何々文化といふのは、こんな時に使ひたいものですな…のちがひであつて、我われ非南國人が焼酎を好む(或は苦手にする)のは、異なる文化を曖昧にしか捉へられなかつた結果ではないかとも思へる。

 

 かういふ話をするのは、薩摩や大隅や日向は知らず、呑み屋での焼酎は、格を低く扱はれてゐる感じがされるからで、例外はありますよ、勿論。ただそれは奄美琉球の酒や料理を供する店だから、例外の域を出ない。油素麺やら豚肉の煮込みやらに焼酎が似合ふのは当然として…かういふ食べものを相手にするには、日本酒だと力負けして仕舞ふ…、そこで収めるのは勿体無いのではなからうか。わたしが云ふのは純アルコールの甲類ではなく(こちらだつたら、もつ煮にも焼鳥や煮魚にも肉野菜炒めにも適ふに決つてゐる)、癖のきつい、でなければ個性のある乙類…"本格"焼酎の方。ポーク玉子や苦瓜のピックルスが適ふのは判つてゐるとして、たとへばソーセイジ、たとへば羊肉、たとへば鰊、さういふのをあはす工夫は無いものか。お酒にチーズ(と生ハム)が似合ふやうな、葡萄酒と焼き豆腐が似合ふやうな、焼酎にもさういふ組合せがあれば、それは我われの酒席を豊かにする發見と云つていいし、焼酎の格だつて高まるにちがひない。それで慌てて『日本の酒』を讀み返してみたが、坂口博士もそこまでは触れてゐなかつた。