閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

412 令和二年の手帖

 高橋書店の"フェルテ4(製品番號234)"…以下単純に"フェルテ"と呼ぶ…を令和二年の手帖に撰んだ。前年(平成卅一年から令和元年にかけて)は同社の"リシェル"を使つて、それよりひと廻り判型が大きい。参考までに云ふと、価格は消費税が別で千四百円。"リシェル"で使へてゐた小物入れといふのか何なのか、それに入らないのは少しこまるが、書ける量に余裕がある方を優先した結論である。

 ラパーは無愛想な黑。作り方が少し雑なのか、内側にある紙片を挟み込める部分の線がうつすらと浮いてゐる。購入した本屋で平積みになつてゐたから、それが原因かとも思へるけれど、たかが数冊の平積みでラパーに線が浮いたのなら、それはそれで雑な造りと云はれても仕方ない気がする。

 高橋書店はラパーの扱ひが苦手らしい。ここの手帖を購ふのは、中身の出來が惡くないからで、詰めがあまいと云へなくもない。中がしつかりしてゐれば問題は無からうとも云へるだらうが、手帖は毎日使ふのですよと(聲ひくく)反論しておかう。尤も感心しないとは云へ、我慢がならないほど酷いわけでもない。合格点を差上げてかまはない程度の中身を編輯するのと、それをどう見せ、持ち歩かせるかはどうやら別の課題らしい。

 さうさう。気にするひとがゐるかも知れないから、序でに記すと、書込みに使ふのは三菱鉛筆のSigno 0.28ミリ。インキの色は黑。遊び心とやらは丸で無く、文房具マニヤはそつと溜息をつくだらうが、溜息をつかれても使ふのはわたしだし、わたしには文房具にフェティッシュを感じる体質の持合せはない。荷風大谷崎を眞似て筆を用ゐ、或は萬年筆に手を伸ばしたところで、直きに飽きて仕舞ふか、扱ひにくさにうんざりするのが関の山であらう。

 それで今さら手帖を何に使ふのか。Googleのカレンダー機能は勿論、スマートフォン向けのアプリケイションだつて幾らでもあるんだし

 「その方が便利でせう」

まことにその通り。確かにGoogleカレンダーは利用してゐる。但し予定の管理に限つた併用。どこかに行くとか催事があるとかが判ればよく、云はば壁掛のカレンダーに丸印を附けるやうな使ひ方。何故その程度の利用で済ますのと云ふと、"フェルテ"(乃至"リシェル")は記録…日記的に用ゐるのが主な目的だからで、さういふ用法の場合、Googleカレンダーだらうが外のアプリケイションだらうが、スマートフォンでも何でも、電源を入れ、アプリケイションそのものを起動させ、更にその中で必要な機能なりを起動させるのが、不便以前に面倒で堪らない。さうかなあと首を傾げつつ

 「これだから、老人は」

と苦笑するひとがゐるのは当然だし、こちらとしても、おれは違ふと聲高くは云ひにくい。併し再び居直るなら、使ふのはわたしであつて、わたしが面倒に感じるなら、それはわたしにとつては好もしくない…もつときつく云へば使へない機能やサーヴィスなのだと断じても誤りにはなるまい。

 少々気障な云ひ方をするなら、手帖にはそこに書込んだ時間が詰め込まれる事になる。だから手帖を持歩くのは書かれた時間を持歩くのと同義、が大袈裟としても、近似値くらゐの場所を与へて許されるのではないか。感傷的な事情よりも紙の手帖がわたしには使ひ易いのが併し實情であつて、ごく簡単にそれは馴染んでゐるからと云へる。

 さてそこで、我が"フェルテ"はその"馴染み"に含まれる(期待を持てる)のかと疑問が浮ぶ。中のつくりは"リシェル"と大差無いから平気に思へるとして、大きさが異なる分、便利さはちがつてくる筈である。わざわざ大きめの判型を撰んだのは、一冊に纏めたい…詰り複数の手帖を併用しない事が前提だからで、ただ"リシェル"を使つた前年…平成卅一年から令和元年に、それで大きな不満があつたとは云ひかねる。

 「大きめ(の判型)なら、書き易からう」

改めて"フェルテ"を撰んだのはもしかすると、併用を避けるとかひと纏めにするとか以前に、かういふ単純な気分が一ばんの理由だつたかも知れず、さうなると大は小を兼ねるのが手帖にも当てはまるのかどうか。仮にさうだとして、大きな手帖は重くなるのが当然で、であれば持歩きには不便の度合ひが高くなる。"フェルテ"を撰ぶ時にその点の考慮は無論忘れなかつたし、この判型なら許容の範囲と見積つてもゐるけれど、實際に許容出來るかは使つてみないと判らない。

 ただややこしいのは、使つて不便を感じたとしても、馴染んで仕舞へば余程に酷くない限り、許容出來るだらうとは予測としても容易な事で、さう想像した時、手帖の評価は面倒だと思へてくる。 同時に手帖は使ふものだから評価は他人に任せばよいと開き直れもして、その気分もやややこしさに拍車を掛けてゐる。

 まあ。

 ややこしさ乃至面倒は先送りにしてもいいでせう。

 繰返しになるが、手帖は"ある限られた時間"を詰めた(特殊な)物体である。何をたれに辯護するのかは知らないが、使ひにくいとして…たとへば何年も前に一ぺん試したモレスキン(今はモールスキンだつたか)は、ラパーや紙の撰択は優れてゐたが、わたしの使ひ方でいふとまつたく駄目…いや適はなかつたのに、一年過ぎると、その一年を記した"特殊な一冊"になり、その特殊さには使ひにくいなあといふ不満も含まれ、その不満も含められてゐるのに、惡感情で思ひ出すのは六づかしく、どうもフェティッシュとは別にある種の感情…気分を擽られるのが、わたしにとつての手帖らしい。

 Googleのカレンダーの優秀さ(わたしには便利ではないのだけれど、それは別の話になる)は認めるとして、或は外にも優れたアプリケイションはあるだらうとして、そこにあるのは機能がどうであるかといふ点に尽きて仕舞ふ。出來が惡ければ斬捨て御免で終るもので、"ある限られた時間"を詰める器には相応しくない。そんな器が必要なのかと思ふひともゐるだらうと予想は出來るが、また不要なひともゐるのだらうが、わたしには要るのだと応じておかう。"フェルテ"が器としてどうだつたかは、令和二年が終る頃、やうやくはつきりする。