閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

416 汁をかける

 ごはんに何かしらを打ち掛けて食べる。といふのは大体の場合、お行儀が惡いと云はれる。例外としていいのは、お茶漬け(湯漬けや水飯も含めたい)と味噌汁掛けくらゐではないだらうか。何となく、分りますね、この気分。お椀を綺麗にしてからご馳走さまを云ふのに最適な方法ではなからうか。

 とは云へ、お茶漬けや味噌汁掛けに限らず、打ち掛けごはんは美味しいもので、丼ものはその嗜好を突き詰めた姿ではないかと思はれるが、丼ものは

 「さういふ食べものだもの」

と受け止められるのに、さうでなければ眉を顰められる。不條理ではあるまいか…と云ふ以上、わたしはその"お行儀の惡い"食べ方が好きなんである。

 定食屋で肉野菜炒め定食を食べるとする。肉野菜炒めのお皿には何と呼べばいいのか、炒めた時のおつゆといふか、さういふのが溜つてゐるでせう。あれをごはんに打ち掛けたくて仕方がない。回鍋肉でも青椒肉絲でも麻婆豆腐でも酢豚でも揚げ鶏の甘酢あん掛けでも事情は変らないし、きつね饂飩のつゆや醤油ラーメンのソップ、ハンバーグのデミグラス・ソース、或は焼き餃子のたれも同じである。

 

 耻づかしいね、書き出すと。

 多少の居直りを含めて云ふと、併し我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も、心のどこかで、確かに旨いよなあと呟くのではあるまいか。上塩梅のソースを麺麭で拭ふのは礼儀知らずの態度ではないし、ましてビーフ・シチューを麺麭で掬ふのは樂みでもあつて、同様の樂みをごはんで味はふのが非難ではないにしても

 「貴君、それは控へ玉へよ」

沈黙と共に云はれるのは、筋が通らない気がする。勿論ごはんと麺麭では食事に占める立場が異なるといふ見方は成り立つし、寧ろそちらの方が正しい…麺麭で拭ひまた掬ふのはお茶漬けでお椀を綺麗にするのと同じく、お皿を綺麗にする役割もある…とは思ふのだが、わたしが云ふのは嗜好に属する話だから、冷静になるのは六づかしい。

 

 なので居直りつつ、些か昂奮もしつつ續けると、種々の汁かけごはんで一ばん旨いと思ふのはおでんである。丸太はおでんでごはんを食べるのかと驚いてはいけない。おでんはあくまでも肴だから、厚揚げや大根、牛筋、結び蒟蒻、餅巾着に飯蛸なんぞでお酒を呑む。銘柄はまあ何でもいい。旨いおでんを出すお店なら、あはせるお酒だつて信用出來る。それにこんな時に純米だの生酒だの八釜しい事を云ひ出すと、その分おでんがまづくなる。我われはそろそろ、酒と肴が一体になつた味について、改めて考へなくちやあならない。

 もの堅い話は措きませう。詰らない。一ぱい呑りながらおでんを一通り満喫したら、最後に(またはもう一度)玉子を入れて、それを崩す。黄身をつゆで溶く。わたしはどろりとなつたくらゐを好むが、その辺は我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも好みがあるだらう。その黄身でひと口のごはんを食べるのがいい。厚揚げや大根の欠片、牛筋の残り、黄身に混つた辛子、それらが渾然となるのが醍醐味で、更に先週のおでんめしは舌にぴつたりだつたのに、今夜はどうもぴんとこないといふ事があるのがまた宜しい。大袈裟に云へば同じ料理…食べ方でも、その時々で微妙な差異…それが天候や体調や気分に左右されるのは念を押すまでもなく…が出來るのが本來であり、食べる樂みでもある。汁掛けごはんで感じるのは、その微妙な部分がうんと拡大されたのだと考へればいい。その微妙乃至拡大された差異を、差異として樂めば家でのおかずに近くなるし、差異をつづめる方向で工夫すれば定食屋…もつと大きく料理屋…の食べものに近くなる。お行儀は惡いかも知れないけれど、お行儀の惡さと樂みを較べたら、どちらに傾くかは躊躇ふまでもない。

 

 仕舞つた、結局、堅くなつた。

 おでんの玉子ぢやああるまいし。