閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

445 清楚でも清潔でもない

 割烹は割クと烹ルの意。割くのは魚や獸の肉でせうな。どちらも高級な調理法と云つていい。ことに烹るのは高級と同時に贅沢でもあつた筈だ。一定の火力を長時間保たねばならない。またその火力で使へる器を手に入れるのは、かなりの難儀だつたにちがひない。漁撈人は貝殻や亀の甲羅を使つたといふ。成る程、理に適つてゐる。平地や山林に棲んでゐた連中はどうしたか。どうやら大きくて分厚い木の葉をもぎ取つたらしい。もぎたての葉つぱはそれなりに頑丈で、内に蓄へた水分も役に立つさうだが、試した事はないから、實際がどうかの保證はしませんよ。

 ここからは烹る方を注視するとして、何の目的があつて火を通す…烹るのかと云へば

 

・生では無理な食材も消化出來る。

 →食べられる物の範囲が飛躍的に広がる。

・長期の保存が無理ではなくなる。

 →生き延びる為の手段を得る事が出來る。

 

その上何より味が佳くなるからで、鍋と壷は、火を熾す技術と共に、文明の曙を示す大發明だつたと云つていい。我われの遠いとほいご先祖は肉を煮立て、魚と貝を煮立て、植物を煮立て、詰り食事を豊かにしてきた。その辺りの事情は洋の東西…ローマでもガリアでも長安でも、出雲でも平城でも筑紫でも…と関係が無い筈で、想像するに、臓物を鍋や壷にはふり込むに到つた流れはおほむね

 

・獸を斃して獲物にする。

 ↓

・肉の部分は割いて焼いて貪る。

 (一部は持ち運ぶ為に干すなり塩藏する)

 ↓

・堅かつたり、焼くのでは食べにくい部位を烹る。

 

かういふ順番だつたのではなからうか。根拠は無いけれど、そんな気がする。さうして歴史がぐつぐつ煮える音に満たされてきたと思へば、ヒトは可憐なものだなあと息を吐きたくなつてくる。

 我が國でそのぐつぐつ音が聞こえだしたのはさて、いつ頃からだらう。有史以前なのは疑はなくていい。中でも稲の實を烹るのは日本の食事史上、最大の劇変であつた。詰りそれを受け容れられる火と鍋を得(てゐ)た事になる。次の劇変は實に十九世紀半ばからの西洋料理の流入まで待たなくてはならず、それでも米炊きにはとても及ばない。稲の傳來以前、我われのご先祖は獸肉と魚介を塩で烹てゐた筈で、味噌や醤を追加しつつ、佛教が來た後もしぶとく残り續けたにちがひない。新着の宗教が殺生をきらはうが何だらうが、旨いと知つてゐる食べものを簡単に棄て捨て去るほど、我われ(とご先祖)は単純、素直ではないのだ。その一方、檀一雄といふひとは『檀流クッキング』の一節で

 「日本人は、清楚で、清潔な料理をつくることに一生懸命なあまり(中略)、鳥獣の本当の食べ方がすっかり忘れられてしまったのである」

臓物を食べたがらない風潮を嘆いてゐた。この名著は昭和四十四年の連載だから、臓物への考へ方は今と異なつてゐるのは当然で、半世紀前はどうやら、喜ばれる食べものではなかつたらしいと判る。勿論半世紀のその前から臓物を煮込んだ料理はあつた。それは鼻の頭が赤い小父さんが焼酎を舐めながらつまむやうな…檀の云ふ"清楚で清潔な"料理からはほど遠い印象があつた。實際は知らない。

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 その臓物が表舞台に立ち始めたのは…何年前だつたか、もつ鍋が流行した記憶がある。"朝に捌いた新鮮な"もつに韮をたつぷりとかいふ謳ひ文句で詰り"清楚清潔"に寄せてきた感じ。流行がどうなつたかは兎も角、臓物を煮込んだり、串焼きにしたのを看板に出す…詰り"賣りにする"…傾向は、この辺りからはつきりしてきた気がする。尤も"清楚清潔"が賣りだと思ふと、肉の膏みを嬉しがるのと事情は大して変らない。そのくせ料り方は、わたしの知る狭い範囲に限れば、新鮮で清潔ではなかつた臓物の扱ひと(ほぼ)同じ…味噌や醤油で色濃く烹上げるまま…に思へる。本來なら少々やれた臓物を食べる工夫の筈なのに。かう書くと

 「いやあれは臓物のくせを和らげるから必要なのだ」

と反論するひとが出るだらうが、またそれは必ずしも誤りではないのだが、だとしたら

 「毎朝捌きたての新鮮なもつを使ふ理由は」

どこにあるのでせうと質問を投げ掛けたくなる。文明以前から何千年かを経た烹て喰ふ歴史に、詰り"新鮮な臓物料理"は未だ答を返してゐない。

 併しややこしい態度を隣に置いて云へば、烹た臓物は實に旨い。我われに馴染み深いのはきつと大根や牛蒡、人参、蒟蒻、厚揚げ、焼き豆腐に刻んだ白葱を散らした安呑み屋のもつ煮でありませう。うまくすれば鶉玉子も入つてゐて、得をした気分になる。高くてもまあ五百円にはなるまい。かういふのは"新鮮捌きたて"ではないと思ふ。さうでなくても旨く食べられるのが烹るといふ調理の特典で

 「それは丸太が莫迦舌だからだよ」

と云はれたらそれはその通り。とは云ふものの、下煮だけ念入りにすれば(この革新的な技法が烹る手順に採り入れられたのはいつからだらう)、わたしのやうな莫迦舌でなくても満足させるのがもつ煮の本來…強みではあるまいか。それでもつ煮を食べる時は、鼻の頭が赤くなくても矢張り焼酎なり泡盛なりが好もしい。烹るといふ調理法は南國で發展したのかと思へてきて…いやこれ以上は踏み込まず、その相性の佳さを歓ぶに留めたい。詳細緻密な検証は熱心な割ク烹ルの研究家に任せ、気持ちよく醉ふ態度が、歴史への敬意と云へさうに思はれる。