閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

350 ティオ・ペペが呑みたくなる

 偶にティオ・ペペが呑みたくなることかある。シェリーの一種。酒精強化ワインなどと分類されるさうで、確かにさうではあるが、無愛想でまづさうな呼称でもある。酒屋に入つてシェリーがマデラと一緒に酒精強化ワインの棚に並んであつたら踵を返すだらうな、きつと。

 白で辛口。

 一般的にはアペリティフらしく、檀一雄英國で某氏夫妻を夕食に誘つた際

 「何にしますか?檀さん」

 「やっぱり、鮭の温燻と、ローストビーフです」

 「いいえ、アッペルチーフ?」

 「シェリーが有難いですが…」

招待した積りが招待されてゐたと気がつくくだりがある。その某氏が云ふアッペルチーフが詰りアペリティフ、食前酒と理解していいでせう。

 尤もわたしはシェリーからスモークト・サモンにロースト・ビーフなんて英國紳士的な食事には縁が無い。散々呑んでから、食後酒…ディジェスティフにティオ・ペペを呑む。ソーダで割つてもらふことが大半だから、生眞面目なシェリー愛好家からは厭な顔をされさうだが、これはこれで旨いのだから仕方がない。

 吉田健一が教へて呉れるところに拠ると、ティオ・ペペ…シェリーの醉ひはお酒に近いさうで、観世栄夫がものした一文を見ると、東海道線の寝台特別急行列車に乗り込んで

 列車が、ガタンと発車するのをシオに吉田先生が「河上さん、シェリーは」と言ってさされると、そこから、酒宴が始まる。

と書いてある。注のやうに云ふと、“河上さん”は河上徹太郎のこと。吉田より十年年長の批評家で、よほどうまが合つたのか、金沢や新潟、酒田へ共に足を運んでゐる。

 この場合のシェリーは鮭の温燻のアペリティフといふより乾盃の為であつて、内田百閒が阿房列車に持ち込んだお燗酒入りの魔法壜に近い。きつと驛辨の何とも云へぬおかず…鰤の照焼き、小芋の煮ころがし、昆布の佃煮…や、横濱辺で買つた焼賣なぞがつまみになつたのだらう。

 かういふシェリーの呑み方は試したことがなくて、さうするには列車内で三時間くらゐは必要ではないかと思へる。それが無駄遣ひといふならスモークト・サモンを待ちながら呑むのも、バーでディジェスティフ代りに呑むソーダ割りも無駄遣ひであつて、そんな莫迦げた理窟があるとはとても思へない。寝台列車は今すぐ乗れるものではないが、ティオ・ペペを呑みに出掛けるのは六づかしくない。そこで無駄かどうか、試しに行く。

349 祖母も安心する粕汁

 父方の祖母は酒精を受け付けない体質のひとだつた。家では正月元日にお屠蘇を呑むのが慣はしになつてゐて、祖母は盃を脣にあてる恰好でその儀式としてゐた。少年から青年に到る時期のわたしは、世の中にはさういふひとがゐるのだと、お説教も何も無しに教はつた。不思議なのは祖母の血を受け継いでゐる父とその倅(わたしのことだ)は酒精を好むたち…祖父が呑み助だつたかどうか。記憶にある限り、呑んでゐる姿を見たことがない…なことだが、好きではあつても弱いから、きつと

「呑みすぎるンは、止めときイね」

と云はれてゐるのだらう。不肖の孫(わたしのことだ)は祖母に甘やかされ、わたしもまたばアちやん子だから…祖母が浄土に召された後もこれは変らない…、さう云はれると頭を抱へざるを得ない。なので呑みすぎるンは控へることにする。それでひとつ思ひ出したのは、酒精を受け付けないひとは、奈良漬けのひと切れでも顔が赤くなるもので、うつかり奈良漬けの欠片を口にした祖母もさうだつた。さういふ事情の所為だらう、家で酒粕を使つた食べものは殆ど出なかつた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のご家庭でも、酒精由來かどうかは兎も角、似た事情はあつたのではないか知ら。

 酒精由來の食べものと云へば酒粕で、お酒を搾つた時に出來る。外の酒類にかういふ副産物があるのかどうか。味醂や焼酎を搾る際にも出來るさうだが、たとへば葡萄酒の粕はどうか。圧搾といふ工程があるから、搾り滓は出ると思ふけれど使ひみちはあるのだらうか。次の機会に葡萄酒藏で訊くこととして、ここは酒粕に話を絞る。幼い…若い頃は苦手だつた。最初に書いた通り、お酒由來の食べものが食卓に並ぶ機会が少く、従つて馴染む機会にも恵まれなかつたのが理由の第一。これははつきりしてゐる。第二の理由として考へられるのは酒粕それ自体の問題で、そんなことを云ふのは根拠がある。

 以前にも何度か名前を出した記憶があるから、ここでも気にせずに書くと、東京の奥多摩に[小澤酒造]といふ酒藏がある。元祿十五年…十八世紀に入つた計りの頃…の創業ださうで、赤穂浪士の討入りがあつた年でもある。ものの本によると、当時は一年を通して酒醸りを行つたさうだから、もしかして大星由良之助も、この藏のお酒を味はつたかも知れない。当時の藏は元祿藏の名前で残つてゐて、藏の見學で入つたことがあるが、高い天井と頑丈な顎のやうな梁が気分のいい建物である。かういふ気分のよさは建てて直ぐにどうにかなるものではなく、現役で百年二百年、動き續けないと出來上らない。百年二百年、現役で動き續けられるだけの要件…需要とでも余裕とでも云つていいが、さういふ何事かが欠かせないことになつて、詰りそれが文化である。

 元祿期は兎も角、現代のお酒醸りは實に贅沢なもので、酒米を削りに削る。

「かうすることで雑味を減らせるのです」

といふ話だつたが、半分がところ削る場合もあると聞くと、勿体無いなあと思ふのが人情で、その辺りを訊いてみると

「お煎餅のもとや、飼料になります」

さういふ答で安心した。因みに云ふ。酒米を削るのは恐ろしく時間を要する工程で、勢ひよくがりがりやると、成分が熱で変化して仕舞ふのだといふ。何十時間だかを掛けるさうだから、その面から見ても贅沢と呼んでいいか。尤もお酒…葡萄酒でもヰスキィでも焼酎でも骨組みは同じ筈だが…はお米と水と麹で醸るから、人間が施す手を拒む部分がある。隣に立つて注意深く見つめ、多少の手助けをするのが精々で、もしかすると化学的に進んだ工場では何やかや、手を出すのだらうか。その辺はどうも判然としないが、お酒は藏で醸されるのが矢張り本筋…少くとも文化的とは呼べない態度だと思へて、工場酒では酒粕が出來るのか知らと不安にもなる。

 やつと話が酒粕に戻つてきた。時間を掛けて削りに削つた酒米で醸すお酒から搾られた酒粕がまづい道理はない。仮にまづく感じたのならそれは酒醸りのどこかで失敗りがあつたか、味はふこちらの舌がをかしいかであつて、杜氏が搾りにかかるまで失敗りに気づかないのはあり得ないことを思ふと、祖母のやうに酒精を受け付けない体質でもない限り、こちらの舌に問題があると考へて誤りにはなるまい。[小澤酒造]では年に一ぺん、眞冬の時期にその酒粕で作つた粕汁を振舞ふ。この何年かは無沙汰をしてゐるが、あれは滅法うまい。具に入つてゐるの大根や牛蒡や人参、菎蒻に鮭くらゐで、特筆に足るとも思へないのに旨いのだから、詰り酒粕が上等(ここで慌ててつけ足すと、奥多摩の水がいいのも忘れてはならない)だからで、幾ら由良之助が晝行燈を気取つても、ここまでは味はへなかつた筈である。

 それで實はその粕汁のことを書きたかつた。既に述べた通り少年丸太の舌に、粕汁はどうも旨いと思へなくて、それは馴染みが薄かつたのもあるが、酒粕自体の出來がもうひとつだつたのではないか。歳を経て味覚が変つたのも忘れてはいけないとして、[小澤酒造]の粕汁には厭な酒臭さが丸で感じられなかつたのを思ひ出すと、あれなら稚い舌にも美味いと感じられたのではなからうか。遡つて試せないのが残念でならない。さう考へるのは酒粕さへちやんとしてゐれば、粕汁は何を入れても旨いにちがひないと判つたからである。上に挙げた大根に牛蒡に人参に菎蒻に鮭だけでなく、豚肉でも油揚げでも厚揚げでも長葱でも種々の茸でも間違ひはなく、何なら全部を入れてもかまふまい。和食の汁椀は味噌仕立てでも澄しでも、種物を多くするのを避け、また大体のところはその方がうまいのでもあるが、粕汁はその系統には属さない。この系列は外に、豚汁や薩摩汁、三平汁にのつぺい汁、けんちん汁があつて、このちがひはどこに起因するのだらう。

 いや起因だか起原だか源流だかは調べたくなつたら調べるとして、かういふ具沢山系統のお椀…勿論大振りの…があれば後は炊きたてのごはんが一膳にお漬物の欠片でもあればご馳走で、併しさう考へた時、粕汁はそこからも半歩ずれてゐる気がする。勿体振る積りはないから續けると、粕汁に限つては肴にしたい。呑むのがお酒なのは云ふまでもなく、その酒粕を生んだ藏の銘柄が望ましいのもまた改めるまでもない。吉田健一は大坂の一膳飯屋で食べるかやくごはんと粕汁の組合せを絶讚してゐて、確かにそれは世界の(でなければ大坂の)眞實ではあるのだが、同じ藏のお酒と粕汁の組合せには一歩を譲りさうだ。葡萄酒を樽で寝かせた後、その樽を割つて燻したベーコンかサモン、或は牡蠣があつたら、きつと一晩呑み續けてもお釣りが出るにちがひなく、さういふ魅力がお酒の肴といふ粕汁にもある。

 この場合に有り難いのは粕汁が朝の卓にあつても不似合ひではないことで、(かやく)ごはんとお漬物を添へて朝食をしたため、そのまま粕汁だけお代りすればお酒へとなだらかに移れる。そのまま晝を過ぎ、夜まで呑めるかも知れない。西洋風の具沢山な汁椀といへばシチューを代表に挙げて誤りではなからうが、また朝食に出てきても不思議ではなからうが、そのまま葡萄酒へとなだらかに移れるかと云へば疑問が残る。シチューは矢張り汁椀といふより食事だから平らげるとそこでひとつ区切りがつく。粕汁は食事ではあつてもその中では飲みものに近いらしく…たとへばこつ酒を思ひ出したい…、気がつけばお椀は空になり、また気がつけばお椀は満たされてゐる。かうなると吉田健一か内田百閒の短篇小説のやうに理想的で、いつの間にやら睡つたところで、それはさういふものさと思つてゐられる。そのさういふものを愉しむのはお酒が搾られる時節に限られるのは残念と云へなくもないが、年中さうならないと保證されてゐるのだから、きつと祖母も安心して呉れるにちがひない。

348 ロヴェルの冷し中華

 考へてみたら令和元年の夏…暦の上では既に秋だが、一応新暦の八月末までは夏に含めたい…は、冷し中華を食べてゐない。この“食べてゐない”はお店とマーケットで買ふのと自分でどうにかするのを全部含んでの話。古い手帖を捲るのを省略し、記憶だけで云ふと、何年振りの筈である。尤もわたしが好む冷し中華は、酸つぱいたれに、細切りのハムと玉子焼きと胡瓜(細切りはすべてに掛かる)、それから木耳と辛子で成り立つもので、かういふのを求めると案外なくらゐ、見つからない。ハムが煮豚になり、トマトが追加されるまでは我慢するとして、マヨネィーズまで添へられた日には、寿司屋で予告無しにカリフォルニア・ロールを出されるのと同じくらゐの気分になる。いや寿司屋で予告無しにカリフォルニア・ロールを出された経験は無いから、これは想像なのだけれども。

 念を押すと冷たい麺を食べない…詰りきらひなわけではない。夏は食欲ががつくりと失せるのが例年で、その時節の冷たい麺は有り難いもので、事實昨日も素麺を啜つた。素麺を旨いと感じてゐるかどうかは別かも知れない。冷たいのがうまいのは間違ひなく、単純な感想ではあるし、カクテルについてのハーヴェイ・ロヴェルの箴言が思ひ出される。ロヴェルが何者かを知りたければ、『深夜プラスワン』をご一讀なさい。寝苦しい夜を忘れさせる讀書になるのは、わたしが請け合ふ。

 ロヴェルが云ふには、カクテルは冷しておけば一応うまいと感じられるさうで(アメリカを統治するこつでもあるらしい)、確かに説得力がある。今ひとつのお酒や葡萄酒も、くつと冷せば晩酌にやつつけるのに不満はないくらゐにはなる。尤もさういふのは温度が戻るにつれて、矢張り今ひとつになる。醸りが丁寧だと、冷し過ぎは感心出來ない。寧ろ温度の戻りで香りが立つもので、それがすべてでもなからうけれど、何を呑むか迷ふ時の判断(少くとも材料のひとつ)に使へるとは思ふ。

 冷たければ一応のところうまくなるのはカクテルやお酒や葡萄酒だけでなく、麺もそこに含めてもいい。前述の冷し中華や素麺、ざる蕎麦もまたさうですな。立ち喰ひ蕎麦屋のざるだと、つゆを冷蔵庫にでも入れてゐるのか、自動販賣機の珈琲のやうに冷たくて(呑み過ぎた夜には有り難いし、温泉卵を入れれば、もつといいのだけれど)、旨いともまづいとも感じられない。括弧書きの部分は括弧書きで収めても平気だからで、無視をしても差支へない程度の例外と云つてよく、詰るところ麺とたれまたはつゆと具と器を塩梅よく冷すのが望ましいといふ当り前の結論に到る。当り前だから詰らないと云はれても、当り前になるまでに打ち棄てられた方法は幾つもあつた筈で、今に残らない手法の死骸残骸の果てに当り前が完成したと思へば、それは詰らなくも莫迦ばかしくもない。

 それで当り前の冷たい麺料理で何が旨いだらうかと考へると、矢張り当り前にざる蕎麦や素麺や棊子麺や冷麦、或は冷し中華に落ち着くらしい。母親が時折作つて呉れたのはスパゲッティを冷たく〆たのに、レタースやハム、トマト、胡瓜にもしかすると人参や玉葱(ツナの罐詰は使つてゐなかつた)をマヨネィーズで和へたひと皿だつた。サラド・スパゲッティと呼びたい気もするが、そこまで洒落た仕立でもなかつたから、スパゲッティのマヨネィーズ和へでいいでせう。洒落てゐないからまづいわけではなく、少年丸太にとつては喜ばしい献立だつたとは云つておいて連想が働いたから續けると、母親が当時用意した冷たい麺は、そのマヨネィーズ和への外に、素麺と蕎麦くらゐで、凝つたことは一切しなかつた。料理が得意ではない(とは本人の弁)といふ事情を含め、不肖の倅としては潔い態度と云ひたい。併し今になつて不思議なのは冷たい饂飩が出てこなかつたことで、どんな理由があつたのだらう。

 たいへん粗つぽい云ひ方になるが、饂飩と冷麦と素麺は、太さのちがひがあるだけで、ほぼ同じである。それで少年の頃の丸太は大坂に住んでゐたから、饂飩は白くてがつしりした、太い食べものであると思つてゐた。ここで念を押すと、大坂の饂飩は讃州ほど腰は強くないが、随分と腹保ちがいい。小腹が空いたと一ぱい啜つたら、次の食事に差支へかねない。詰り(蕎麦とちがつて)立派な食事なので、それがきりりと冷されてゐたら、眞夏にさぞ似合ふだらうと思ふ。思つたので一ぺん自分で試してみたら、大してうまくなかつたから驚いた。ただこれは驚くのが無知なので、大坂や讃州のやうにがつしりした饂飩を中まで上手に〆るには、相応の技術を要する筈である。水道水でざふざぶ洗ひ、氷をはふり込めば(それなりにでも)旨くなると思つたのが誤りであつて、洗ひながら厭な予感は確かにあつた。

 だから冷し饂飩がまづいとは云ふのではない。云ひはしはないが、我われ素人が家で作るなら、稲庭だか武藏野だか呼ばれる細い饂飩を用意するのがおそらくは先決で、母親が頑として冷し饂飩を作らなかつたのは、その辺の事情を熟知してゐたか、稲庭乃至武藏野饂飩を知らなかつたからであらう。知らなければ無いのと同じだし、現にわたしも東の地を踏むまで細い饂飩があるのを知らなかつた。その所為だか何だか、今でもその手の饂飩を見ると落ち着かない。わたしの視覚の問題なのでスリムな饂飩の愛好家には誤解なき様お願ひしたい…と云ひつつ、併し太さはどうあれ冷し饂飩は冷たい麺の中で

 冷たさがすべる快さは蕎麦に劣り。

 用意の早さ気樂さは素麺に及ばず。

 具の豪奢は冷し中華の後塵を拝す。

といふ理由で少し落ちると繋いだら、反發を招くだらうか。これが熱くして供されるなら、鍋焼き饂飩といふ圧倒的にうまい一ぱい(一品で完成する豪奢で鍋焼き饂飩と同じくらゐの格を持つ食べものは散らし寿司くらゐではなからうか)があつて、天麩羅蕎麦とにうめんとラーメンが一緒になつてもその優位は揺るがない。スパゲッティはどうだらうと思つたが、温冷いづれも何かしら不満が残りさうである。沖縄そば米粉になると、熱く仕立てる外になく、饂飩もどちらかと云へば、その方向に近い。そんな風に麺が作られ、そんな風に調理が出來てゐつたからで、良し惡しとは異なる話なのは念を押しておかう。さうなると冷たく旨くそれだけで食事になる身近な麺といへば冷し中華に止めを刺すのかと思へてきて、やうやく話が冒頭に戻つてきた。

 家の近所にあるマーケットとドラッグ・ストアでは袋入りの冷し中華が賣つてゐる。冷し中華とはいへ麺とたれを袋詰めにしただけで、そこには

「麺を何分だか茹で、氷水で〆て、お好みの具を乗せたら、たれをかけてください」

と書いてある。云はんとするところは判らなくもないが、これだと冷し中華の必要最小は氷水で〆た中華麺とたれといふことになりかねない。わたしが思ふ冷し中華を啜りたければ、わたしが思ふ具を別立てて用意し、また拵へなさいと云はれてゐるので、乱暴な見立てだと呆れられても、その乱暴を先にしたのは袋入り冷し中華を出した方だから、苦情を云はれても応じるのは六づかしい。

 なので同じ近所のコンヴィニエンス・ストア(何軒かある)に爪先を向けると、その棚には当り前の顔をして冷し中華が並んでゐる。旨さうかと思はなくもない。具がある分、袋入りよりはましだが、實際に買ふと大したことはない。ああいふのはプラスチックの器の下段に麺を、区切りの上に具を詰め、袋入りのたれを同梱してゐる。食べる手順は蓋を開け、区切りを具ごと取出し、たれをぶち撒けて麺をほぐし、そこに具を散らしてからであつて、何といふか殺伐としてゐる。

「啜つてしまへば同じさ」

と云ふのは野蛮人の態度で、さういふひとは

 天麩羅蕎麦の天麩羅をいきなりつゆに沈め、

 或は早鮓の魚だけをつまみあげ、

 カレー・ライスのルーとごはんと福神漬けを乱雑に混ぜ込んでも、

平気なのにちがひない。この手帖は寛容を旨とするから、止めやしないけれど、こちらの目の前では勘弁してもらひたい。いや失礼。礼儀正しく進めなくちやあいけませんね。いけませんが、胡瓜とハムと錦糸玉子と麺が、最初からごちや混ぜになつた冷し中華は御免蒙りたいと思ふのも本音であつて、となるとお店に行かざるを得ない。

 近所には中華を食べさすお店が二軒ある。以前はもう一軒、ラーメン屋があつたけれど、いつのまにか畳んでゐた。冷し中華があつたかどうかは記憶に無い。残つた二軒の内一軒では冷し中華がある。あつた。曖昧な云ひ方になるのは食べたのが何年か前の一ぺんきりで、それほど感心しなかつたからかと思ふ。厨房に立つのが臺灣か中國か香港…兎に角そつちの方面のひとで、かれらはきつと、日本人は妙なものを食べたがるのだなあと不思議に思ひながら麺を茹で、また〆たにちがひない。別の一軒は冷し担々麺(汁無し)を出したりはするが、冷し中華は出してゐない。以前には冷しラーメンを短期間出して、中々惡くなかつたのを思ひ出すと、今度は冷し中華に挑んでもらつてもいいんぢやあないかといふ気がする。詰りふらつと歩いて行ける範囲に、冷し中華を啜れるお店が事實上、無いといつていい。

 なんだそんなこと。新宿でも中野でも銀座でも好きに出掛ければ、解決するよ。

 といふ尤もな忠告を頂けさうであるが、また反發したくもないのだが、冷し中華をそこまでして食べたいとも思ひにくい。『美味しんぼ』といふ漫画に

冷し中華だつて底流にはあるのは中國料理。だから具やたれは中華のそれで調へると旨いのだ」

だつたか、食通が大笑する場面があつた。今にして思へば滅茶苦茶な話で、カリフォルニア・ロールの底流は日本の巻き寿司だから、ナポリタン・スパゲッティの底流はイタリアのパスタ料理だからといふ理窟が成り立つものではない。新宿や中野や銀座の中國料理屋が冷し中華を扱つてゐるのかは知らないが、仮に扱つてゐるとしたら、それは溽暑にやられた日本人に同情してか、冷し中華ではない涼麺であらう。漫画の食通が高笑ひで自慢したのは後者にちがひなく、詰り冷し中華はわざわざ名店を探す食べものとは呼びにくいことになる。

 となれば残るのは自分でどうにかすることで、何となくどうにかなりさうな気もされる。念を押すと、わたしが云ふ“とうにかなる”のは、“旨く作れる”とは異なつてゐて、食べられなくはない程度の出來上り…まあ母親のマヨネィーズ和へスパゲッティくらゐの意味。冷たさで誤魔化さざるを得なくなるとは容易な予想で、ハーヴェイ・ロヴェルからは、辛辣な批評をくらふにちがひない。

347 石麻呂鰻

 大伴家持が友人を揶揄つて詠んだ戯れ歌

 

 石麻呂に 吾物申す 夏痩せに 良しといふものぞ 鰻取り食せ

 

 といふのがある。石麻呂の訓みはイハマロで、吉田連老(キツタノムラジオユ)の字。歌の方はごく簡単で、石麻呂さんよ、鰻は夏痩せに効くさうだからね、たんと食べなさいな、くらゐの意。石麻呂は随分と痩せたひとだつたさうだから、揶揄ひながら気にかけたのですな、要するに。

 その家持は八世紀…奈良時代のひと。詰りその頃から鰻は栄養のある食べものと認識されてゐたと判る。筒切りで串焼きにして食べたらしいが、どんな味つけだつたのか知ら。醤油や味噌の原形に相当するものは既にあつた。尤もそれらが調味料として確立してゐたかどうか。そこは判然としないし、少々怪しいかと思ふ。或は塩焼きだつたかも知れない。

 現代風の蒲焼きがほぼ出來たのは十八世紀に入つてらしい。それまでの味つけは酢や(山椒)味噌で、たれの完成(鰻を裂く技術も忘れてはならないか)にそれだけの時間が掛かつたことになる。家持の時代からざつと千年。気の長い話だなあ。

 

 すりやあまあ、鰻はうまいからね。

 と首肯きたくなるけれど、家持が石麻呂を揶揄つた戯れ歌はもう一首あつて

 

 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな

 

 矢張り六づかしい歌ではない。痩せたまんまだつて、生きてゐるのが大切だからね、鰻を捕りに行つて、川に流されちやあ、いけないよ、程度の意味か。どちらの歌も夏痩せに鰻は効果的だぞとは詠つてはゐても、そこにあれは實に旨いものといふ響きは感じられない。萬葉歌人と友人にとつての鰻は精々、栄養剤程度だつたみたいだ。

 さう云へば焼いただけの鰻…所謂白焼きを食べたことがない。歴とした鰻屋での白焼きは、お刺身の代りださうで、山葵醤油で食べる。いい肴だと思ふが、醤油の大完成があつて成り立つ食べ方でもある。それ以前の酢味噌が駄目とは云はないにしても、味のいい滋養強壮剤くらゐの扱ひ…それでもぶつ切りの串刺しよりは遥かに旨かつただらうけれど…が精一杯だつたらうな。

 背を裂き、白焼きにして、更に蒸し、たれを塗りながらもう一度焼くといふ蒲焼きの手法を發明したのは江戸人で、天麩羅や早鮓と並ぶあの都市の功績と云つてもいい。とは云ふものの、何故そこまで膠泥したのか。鰻でなくても旨いものは色々とあつたのは間違ひないのに。

 そこで我われは江戸といふ町が、労働者の溢れる場所だつたことを思ひ出したい。かれらは烈しい労働で稼いだ日錢で飯を喰つてゐた。それなりに腕のある職人なら、日々の稼ぎに不自由はしなかつた…宵越しの錢を持たずに済む…といふから、見方次第では豊かで気樂な社会だつたとも思へてくる。その錢で何を喰ふか。京大坂風の洗練は好まれず

「あれあ、ちまちましてゐやがるし、水くさくつて、いけねえ」

さう文句を云つたらうなと想像するのは、さして六づかしくない。何しろかれらは文字通りに汗水を垂らして働くのだから、その躰が塩分を求めるのは尤もだし、素早く摂れる栄養価の高い食べものの需要があつたのもまた然り。畿内人は屡々江戸風の濃い味を嗤ふけれど、それは理に叶つた慾求だつたし、その濃い味つけを京大坂と異なる方向で洗練させ續けた(蕎麦つゆを併せて思ひ出したい)のが江戸の三百年であつた。

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 さてそこで気になつてくるのは、肝を食べ出したのはいつ頃からだらうといふ点で、この場合の肝は、肝臓ではなく、内臓全般を指す。鰻そのものは文字以前の時代…ざつと五千年前の遺跡から骨が出土してゐる…から食べられてゐたが、肝食については曖昧で、文献も口を噤んでゐる。魚(の内臓)を塩漬け醗酵さして食べるの(元は保存目的だらうが)は古い手法で、烏賊の塩辛や鮒鮨を頭に浮べれいい。だから鰻の肝がそこから外れるとは考へにくいが、さういふ話を讀んだ記憶が無い。鮒や烏賊に較べて鰻の地位は低かつたのだらうか。さうすると、鰻の肝まで舌…食慾が伸びたのは、矢張り江戸期に入つてからと考へるのが妥当かと思へてくる。ただ苦心の發明譚があつたわけではなからう。きつと蒲焼きのたれを作るのに、鰻の頭や骨を使ひ出した頃

「臓物を棄てるのは、勿体ねえな」

と考へた賢い鰻屋がゐたのだらう。暖簾をしまつた後、佃煮で晩酌を樂しんでゐた時に、ひよいと思ひついたと想像出來るし、もつと単純に何気なく(でなければ手元不如意の職人にねだられて)焼いてみたら旨かつたのかも知れない。或は棄てる臓物を譲つてもらつた佃煮屋(さういふ調理の専門ですからな)の發明だつたらうか。發句仲間の鰻屋と佃煮屋が一緒に工夫したのだつたら面白いが、勝手な想像に過ぎない。まあ實のところはどうであつても、鰻の肝は旨い。鰻の栄養と滋養強壮はこの部分に凝縮してゐるのではないかと思へるからで、それは鰻の肉に対して肝の分量が少ないといふ単純な事情による。但しその肝に味があるものかどうかはよく判らない。ねちりとした歯触り舌触りは確かに好もしいが、それらを彩るのはたれの甘辛さと山椒の香りであつて、たとへば串焼きの肝を食みながら

「旨いものだね」

と呟いたところで、それが肝を褒めたことになるのかは些か怪しい。家持だつて石麻呂さんに、肝も取り食せとは云ひにくかつただらう。

346 文明と南蛮漬け

 南蛮といふのは元々中華に対する概念です。眞ン中に華があつて、この華は普遍性、世界性を持つてゐるといふ文明の謂。確かに共和制が終る時期までのローマを除くと、さういふ意味での文明…帝國は八世紀辺りまでの大唐帝國くらゐしか思ひあたらず、自らを華と誇つても苦情は云へますまい。その華人は華鄙のちがひを八釜しく云ひたてた人びとでもありました。

「皇帝に拝跪すれば華の片隅に入れる」

この場合の皇帝は個人といふより、皇帝といふ立場が象徴する文明だと理解する方がいいでせう。その為の儀式が朝貢で、あれは何百年か時代を下つたタタールの軛のやうに、一方的な搾取ではなかつた。周辺の國々は皇帝、詰り文明を慕つてやつてくるのだから、厚くもてなし、使者が帰國する際には受取つた土産以上の返礼をせねばならず…たいへんな物入れだつたでせうな。文明は豪奢で浪費を求めるたちらしい。

 さういふ華の内側に入らない連中もゐて、華人が蔑んだのはいふまでもありません。

「あいつらはおれたちに靡かない。なんて未開野蛮なんだらう」

現代の感覚だと傲慢きはまりない響きですが、實際八世紀前後のアジア…もしかすると世界の規模でも…に文明國は、盛唐以外に無かつたのだから仕方がない。長安は確かにローマと並ぶカプトゥ・ムンディであつた。尤も華人は中々意地惡でもあつて、靡かない、まつろはぬ連中に蝦や夷、戎だのといふ字をつけた。ひどいですな。南蛮の蛮もそのひとつ。虫の字が入つてゐて、人間扱ひされてゐない。倭なんてニンベンが用ゐられてゐるだけましな方で

「あの連中は礼儀も何も知らないけれど、朝貢はしてくるから、蕃族からは省いてやらうか」

といふ文明の温情を感じなくもありません。念の為に云はずもがなのことを申上げると、かういふ話を(微笑と苦笑を半々にしつつも)書けるのは、中世以前といふ大過去だからで、現代の中共が同じ態度を取つてゐたら(有り得ない仮定ですが)、冷笑を浮べざるを得なくなるでせう。

 ま。生臭ひ方向には進みますまい。

 ところで倭國は中華から見れば、文明の縁にぎりぎりゐるかどうかといふ地域でした。海を隔ててゐるからねと断ずるのは早計で、その面がなかつたとは云ひませんが、同時期のインドやアラビアには頑丈な大型船の建造術と高度な航海の技術がありました。それらは勿論唐の文明圏にも入つてゐたのに、不思議なことに倭までは伝はらなかつたのです。倭人即ち我われの遠いご先祖は鈍感だつたと溜息をつく前に、要は当時の倭國に、大型船で遠洋に出るだけの必要性が稀薄だつたと考へませう。かれらがさういふ技術を要したのは、何年かに一ぺん、唐に使ひを派遣する時くらゐしかなかつたのではないか。その程度の島國で中央に従はない地域を生蕃扱ひしたのは、餓鬼大将が陣地を広げたがる姿のやうで、多少なりとも滑稽を感じます。司馬遼太郎の指摘を信用すると、かれらにとつて版図を拡大する…王化と称したさうですが…のは要するに稲作の範囲を拡げるのとほぼ同じ意味だつたらしい。狩猟民や漁撈民(詰り“マツロハヌ”人びと!)に米作りを押しつける為に、わざわざ征夷大将軍といふ重々しい官職まで用意したのを思ふと、滑稽より無邪気と痛々しさを感じるべきでせうか。

 ここで奇妙だなあと思ふのは、生蕃の蔑称だつた筈の蛮、正確には南蛮ですが、いつの間やら蔑称とは異なる用ゐられ方になつたことです。南蛮人や南蛮料理といふ言葉に蔑みの響きを感じるのは六づかしいでせう。唐天竺ではない外ツ國、或は外ツ國渡りの珍奇を示す意味になつてゐて、どんな経緯で変化があつたのでせうな。少なくとも室町の末期頃には、シャムやジャワといつた東南アジアを指す、いはば地域の総称…南方の外國程度の…となつてゐたらしい。この時期の日本は八世紀の貧弱が冗談だつたかのやうな航海技術を身につけてゐました。もしかすると日本史を見渡して、我われ(のご先祖さま)が自ら外へと向はうとしたのはこの頃、最高潮に達してゐたかも知れません。世界史を眺めると、スペインやポルトガルが版図を拡げた大航海時代と重なつてゐます。商人とカトリックの伝道師と兵隊が大洋を埋め尽したやうな時期でもあつて、かれらは当り前と云はん計りな顔つきで、東南アジアにも拠点を有した。所謂植民地支配といふやつで、その是非をここでは触れません。さういふ背景があつて、南蛮が意味する範囲は、前述した漠然とした地域の総称でありつつも、そこには多少なりヨーロッパの匂ひが含まれてゐたと考へればいい。

 かう考へを進めると、現代の我われが南蛮何々といふ言葉から受ける微妙な違和感にも得心がゆく。あの實態は東洋の異國に源泉があるのではなく、純然たる西洋(その印象は紅毛…オランダやイギリス…の受持ち)でもなく、東南アジアとイベリヤの混淆であつた。極東の島國に棲む人びとがその欠片を目にし、音に聞き、或は味はつた時、エキゾチックの外には云ひにくい感情を抱いただらうとは容易な想像でせう。ご先祖はエキゾチックといふ単語を知らなかつたから、南蛮の文字にその気分を込めるに到つたのではありますまいか。さうだとすれば、マツロハヌ人びとへの呼び名は元々単純な蔑称ではなく、異質な生活に対する畏れも含んでゐたかも知れません。当時の倭人のたれも認めないでせうが、異質への畏怖と憧憬が、日本の文化に激烈な、でなければ極端な影響を与へるのは、佛教と黒船が鮮やかに證明してゐるでせう。南蛮もまたその實例のひとつが(本來の意から転化して)文字になつたと見て誤りにはならないと思はれます。

 それでこんなことを書き連ねた理由は何かといふと、不意に鯵の南蛮漬けが食べたいなと思つたからで、併しああいふのが南蛮…この場合は西洋にあるのか知らと續けて思つたからなのです。マリネーやピックルスがあるのだから、をかしな疑問ではあります。ありませうが、シャンシャールのマリネーとかホース・マッカレルのピックルスとかいふのがあつたとして、南蛮漬けのやうな甘酸つぱくて脂つぽくてそのくせ妙にさつぱりした、詰り旨い小皿料理なのかどうか。イベリヤにも東南アジアにもめしを喰はしてくれる友人がゐないから、根拠もなく推測すると、大元の元はきつと酢に漬け込む保存法だつた気がする。樽か壷かは判らないが酢の中に、内臓と血を抜いて火を通した鯵だか何だかをはふり込んで、食べる時に改めて焼くなり煮るなりしたのではないでせうか。さういふ保存と調理の手間をまだるつこしいと感じた連中がゐた筈で

「酢がうまければ、待たなくたつて、直ぐに食べられるぢやあないか」

さう云つたかどうかは知らない。またさう考へた気の早い連中がイベリヤの料理人だつたのか、ルソン定食の親仁だつたのかも判然としない。たださういふ方向への変化があつたのは確實で、我が國に伝はつたのはその変化の最中で、長葱や唐辛子と前後しつつだつたらうと思へます。酢漬けから甘酢漬けになつたのは、唐辛子や葱のくせ…風味を調へまたは誤魔化す手法で、保存といふ本來の目的から離れて出來あがつたのだらう。こんな工夫をたれが始めたか、歴史は沈黙してゐますが、わたしは崎陽…長崎が怪しいと思ふ。あすこは大陸にも近いし、日本國の殆どが殻に隠つた後も外向けの小さな窓を開けた土地でしたからね、日本だけでなく、唐渡り天竺渡りは勿論、南蛮渡りの料理法や調味料だつて、不自由はしなかつたにちがひない。イベリヤで生れ、東南アジアでのアレンジを経てもたらされた(恐らくは一種の)酢漬けが、種々の香味野菜や香辛料と共に、日本は長崎の流儀で仕立て直されたのが、我われの目にする南蛮漬けであらうと思ふと、どこ乃至何に分類することもない普遍性…即ち文明が小皿に乗つてゐると見るのも、強引なのは認めるにせよ、丸々間違つてゐるとも云ひにくいのではありますまいか。かういふお皿を大唐皇帝の食卓に差上げれば、華の内に入れてもらへさうな気がするが、何しろ千年余り前の陛下ですからねえ。