閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

445 清楚でも清潔でもない

 割烹は割クと烹ルの意。割くのは魚や獸の肉でせうな。どちらも高級な調理法と云つていい。ことに烹るのは高級と同時に贅沢でもあつた筈だ。一定の火力を長時間保たねばならない。またその火力で使へる器を手に入れるのは、かなりの難儀だつたにちがひない。漁撈人は貝殻や亀の甲羅を使つたといふ。成る程、理に適つてゐる。平地や山林に棲んでゐた連中はどうしたか。どうやら大きくて分厚い木の葉をもぎ取つたらしい。もぎたての葉つぱはそれなりに頑丈で、内に蓄へた水分も役に立つさうだが、試した事はないから、實際がどうかの保證はしませんよ。

 ここからは烹る方を注視するとして、何の目的があつて火を通す…烹るのかと云へば

 

・生では無理な食材も消化出來る。

 →食べられる物の範囲が飛躍的に広がる。

・長期の保存が無理ではなくなる。

 →生き延びる為の手段を得る事が出來る。

 

その上何より味が佳くなるからで、鍋と壷は、火を熾す技術と共に、文明の曙を示す大發明だつたと云つていい。我われの遠いとほいご先祖は肉を煮立て、魚と貝を煮立て、植物を煮立て、詰り食事を豊かにしてきた。その辺りの事情は洋の東西…ローマでもガリアでも長安でも、出雲でも平城でも筑紫でも…と関係が無い筈で、想像するに、臓物を鍋や壷にはふり込むに到つた流れはおほむね

 

・獸を斃して獲物にする。

 ↓

・肉の部分は割いて焼いて貪る。

 (一部は持ち運ぶ為に干すなり塩藏する)

 ↓

・堅かつたり、焼くのでは食べにくい部位を烹る。

 

かういふ順番だつたのではなからうか。根拠は無いけれど、そんな気がする。さうして歴史がぐつぐつ煮える音に満たされてきたと思へば、ヒトは可憐なものだなあと息を吐きたくなつてくる。

 我が國でそのぐつぐつ音が聞こえだしたのはさて、いつ頃からだらう。有史以前なのは疑はなくていい。中でも稲の實を烹るのは日本の食事史上、最大の劇変であつた。詰りそれを受け容れられる火と鍋を得(てゐ)た事になる。次の劇変は實に十九世紀半ばからの西洋料理の流入まで待たなくてはならず、それでも米炊きにはとても及ばない。稲の傳來以前、我われのご先祖は獸肉と魚介を塩で烹てゐた筈で、味噌や醤を追加しつつ、佛教が來た後もしぶとく残り續けたにちがひない。新着の宗教が殺生をきらはうが何だらうが、旨いと知つてゐる食べものを簡単に棄て捨て去るほど、我われ(とご先祖)は単純、素直ではないのだ。その一方、檀一雄といふひとは『檀流クッキング』の一節で

 「日本人は、清楚で、清潔な料理をつくることに一生懸命なあまり(中略)、鳥獣の本当の食べ方がすっかり忘れられてしまったのである」

臓物を食べたがらない風潮を嘆いてゐた。この名著は昭和四十四年の連載だから、臓物への考へ方は今と異なつてゐるのは当然で、半世紀前はどうやら、喜ばれる食べものではなかつたらしいと判る。勿論半世紀のその前から臓物を煮込んだ料理はあつた。それは鼻の頭が赤い小父さんが焼酎を舐めながらつまむやうな…檀の云ふ"清楚で清潔な"料理からはほど遠い印象があつた。實際は知らない。

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 その臓物が表舞台に立ち始めたのは…何年前だつたか、もつ鍋が流行した記憶がある。"朝に捌いた新鮮な"もつに韮をたつぷりとかいふ謳ひ文句で詰り"清楚清潔"に寄せてきた感じ。流行がどうなつたかは兎も角、臓物を煮込んだり、串焼きにしたのを看板に出す…詰り"賣りにする"…傾向は、この辺りからはつきりしてきた気がする。尤も"清楚清潔"が賣りだと思ふと、肉の膏みを嬉しがるのと事情は大して変らない。そのくせ料り方は、わたしの知る狭い範囲に限れば、新鮮で清潔ではなかつた臓物の扱ひと(ほぼ)同じ…味噌や醤油で色濃く烹上げるまま…に思へる。本來なら少々やれた臓物を食べる工夫の筈なのに。かう書くと

 「いやあれは臓物のくせを和らげるから必要なのだ」

と反論するひとが出るだらうが、またそれは必ずしも誤りではないのだが、だとしたら

 「毎朝捌きたての新鮮なもつを使ふ理由は」

どこにあるのでせうと質問を投げ掛けたくなる。文明以前から何千年かを経た烹て喰ふ歴史に、詰り"新鮮な臓物料理"は未だ答を返してゐない。

 併しややこしい態度を隣に置いて云へば、烹た臓物は實に旨い。我われに馴染み深いのはきつと大根や牛蒡、人参、蒟蒻、厚揚げ、焼き豆腐に刻んだ白葱を散らした安呑み屋のもつ煮でありませう。うまくすれば鶉玉子も入つてゐて、得をした気分になる。高くてもまあ五百円にはなるまい。かういふのは"新鮮捌きたて"ではないと思ふ。さうでなくても旨く食べられるのが烹るといふ調理の特典で

 「それは丸太が莫迦舌だからだよ」

と云はれたらそれはその通り。とは云ふものの、下煮だけ念入りにすれば(この革新的な技法が烹る手順に採り入れられたのはいつからだらう)、わたしのやうな莫迦舌でなくても満足させるのがもつ煮の本來…強みではあるまいか。それでもつ煮を食べる時は、鼻の頭が赤くなくても矢張り焼酎なり泡盛なりが好もしい。烹るといふ調理法は南國で發展したのかと思へてきて…いやこれ以上は踏み込まず、その相性の佳さを歓ぶに留めたい。詳細緻密な検証は熱心な割ク烹ルの研究家に任せ、気持ちよく醉ふ態度が、歴史への敬意と云へさうに思はれる。

444 厄介な紅いあいつ

 わたしの経験なんぞ大した事ではないから、そこは差引きの必要がある。東都で滅多に見掛けない食べもののひとつに紅生姜の天麩羅を挙げて、異論や疑念は出るだらうか。薄切りの紅生姜を使ふ。辛みがあつて酸つぱくて、おかずにも饂飩の種にもなる。大坂では珍しくなく、マーケットのお惣菜賣場にも並んでゐる。東都でも一ぺんか二へん、立ち喰ひ蕎麦屋で見た事はある。試してみたら、牛丼屋に置いてある紅生姜みたいに刻んであつたから驚いた。まづくはなかつたけれど、物足りなかつたなあ。

 

 紅生姜は要するに酢漬けである。正確には梅酢漬け。もつと正確には梅干しを作つた後の漬け汁の再利用。大坂…関西が發祥であるらしい。生姜が日本にもたらされたのは二世紀から三世紀頃、梅を塩藏する技法は十世紀迄に伝來したといふから、紅生姜(の原形)が出來たのはそれ以降。食べものを油で揚げる方法は十六世紀頃に伝へられたから、紅生姜を

 「揚げて喰ふたら、美味いンとちがふか」

といふ發想が出たのは四百年前くらゐだらう。意外に新しい。併しインド原産と考へられる生姜と、始皇帝が死んでから劉邦が天下を盗るまでの間には出來てゐただらう梅干しと、ポルトガルまで遡れる揚げものの技術が、東洋の端つこで合体したと考へれば、完成までに二千年近く掛かつたのだと見立てられもする。後者の方が話の柄が大きくていい。

 

 刻んだ紅生姜はよく目にする。上の牛丼は勿論、ソース焼そば、冷し中華沖縄そばには欠かせない。ラーメンに興味は無いが、北九州では乗せるか入れるかすると聞いた事もある。いづれも香りと彩り、香辛料の役割を果してゐますな。紅ではない生姜も同じで、豆腐や鰹、鯵、素麺。鯖なら塩焼きに薑が無ければ寂しいし、針生姜をあしらはない味噌煮は想像の外にある。天麩羅のつゆに大根おろしを用意するのは基本中の基本だが、そこにひとつまみの生姜があれば、奥行きがぐつと深まつてくる。詰りさういふのが紅生姜に求められる本來なので、それをわざわざ揚げて喰ふなど、どこから思ひついたのか知ら。

 

 偶然だらうね、きつと。天麩羅屋台で用意してあつた口直しの紅生姜を、ぽつりと油に落して仕舞つて

 「かなンな。勿体無い」

それでつまんでみたとか、そんな程度の切つ掛けに決つてゐる。それとも偏執的な紅生姜の愛好家か食通気取りが

 「かまンから、一ぺん、揚げてみイな」

と強要したのかも知れない。まあ、大して旨くはなかつただらう。その一方で今後決して食べるのは御免だと思へるまづさでもなかつたのも確實である。でなければ現代まで(細々とでも)とても生き残れまい。筈なのだが、どうやつて生き残つたのか、さつぱり判らない。江戸時代の天麩羅は低い火力の所為で、衣が厚く、ひどくぼつてりしてゐたといふ。そのぼつてりが紅生姜に適つたのかと想像してみたが、どうもしつくりこない。わたしが知つてゐる紅生姜の天麩羅は、薄い衣をつけ、高温で素早く揚げたものだから。

 

 冒頭、おかずにも饂飩の種にもなると書いた。大坂風の饂飩には確かに適ふ。わたしは大坂式饂飩ならお揚げサン(とかやくご飯の組合せ)を最良とするのに躊躇を感じない者だが、次点にもしかすると、紅生姜の天麩羅を推薦してもいいかと思つてゐる。生姜の味のきつさを、天麩羅の衣と大坂風の甘やかなおつゆは巧く受け止める。江戸風の蕎麦つゆを試した事はないが、喧嘩しさうな予感がする。海老や小柱との相性のよさを思ふと、種ものは六づかしいのだな。

 問題はおかずの方面。お皿に盛り、或は丼めしに乗せ、ではどこで食べればいいものか。その点では薩摩芋や南瓜に近い。近くはあるが芋瓜なら、えい決めたと食べられても、紅生姜だとさうはゆかない。途中途中でつまむのがよく、その点に立てば大葉や獅子唐に近いか。とはいへ大葉獅子唐に較べたら刺戟が強くて、共存も置換もどうかしらと思ふ。獨立性が高いと褒めてもいいが、異端と呼ぶ方が實態だらう。厄介である。

 

 だつたらその厄介を省けば済むのかと云へば、短慮の謗りを免れまい。わたしはその判断を断然非難する。あんなに美味いんだもの、食べない手はないよ。おかずには六づかしくても、つまみにはなる。麦酒やお酒より焼酎がいい。饂飩つゆが受け止めるなら、焼酎は渡り合ふ感じ。組合せは大坂の立ち呑みに毛が生へたくらゐの呑み屋で試した事がある。予め揚げてあつたのを、フライパンで焦げがつく程度まで温めて出してきて、あれは中々旨かつた。さう云へば薩摩揚げに紅生姜は刻み入れられてゐる。不思議だと思つたが、生姜は暑い土地の原産である。暑い土地の酒精に似合はない方が寧ろをかしい。辛くて酸つぱく、紅いあいつは、さうやつて平らげればいいのだとやうやく解つた。喜ばしい。喜ばしいのはいいが併し、東都で紅生姜の天麩羅を食べるのは、気らくとは云ひにくい。矢張りあいつは、どこかしら厄介である。

443 オスカー小父さんの誤算

 135判のフォーマットでは50ミリの焦点距離を標準レンズと呼ぶ。ではその標準レンズとは何ぞやと、(辞書的な)定義を知りたくなるのは人情であらう。結論を先に云ふと、明確な定義は無い。"何に対しての標準"なのかが曖昧なのだから当り前である。身も蓋もなく云へば、ライカ…より正確にはオスカー・パルナックが、後にライカと名づけられるカメラの試作で、偶々50ミリ(ツァイスのテッサーと讀んだ記憶があるが、本当か知ら)を採用したのが切つ掛けらしい。要するに偶然、でなければオスカー小父さんの気紛れ。

 いや気紛れと決めつけるには早い。135判フォーマットを半分にすると16ミリ映画用フォーマットになる。このフォーマットでは1インチ…大体2センチメートル半…が基準のレンズだつたらしい。 我らのオスカー小父さんがカメラを作らうと考へたそもそもの動機、目的は判然としないが、数ある説のひとつに、映画撮影前の露光確認がある。当時のフヰルムは低品質…ばらつきが多かつたから、事前に確めておかうといふのですな。そこで映画用カメラと同じ焦点距離のレンズを採用した。成る程なあ。では映画用カメラで1インチが基準になつたのは何故か…までは判らない。扱ひ易く作り易い画角といふ條件で収斂したのか。

 ところでライカの登場後、50ミリが理由の曖昧なまま、なし崩しに基準的なレンズの坐についたのは面白い。ライツ社がアナスチグマット、エルマックス、エルマー、ヘクトールと50ミリを固着した機種(俗に云ふA型)を出したからと考へてもいいが、当時のライカにそんな影響力があつたのか知ら。もつと簡単に、ライカのやうなカメラはライカ以前には無かつたから、ライカの後に出たライカのやうなカメラは、ライカが採つた方針をひとまづ眞似ただけ(アクセサリ・シューもそのひとつ)と考へる方が自然に思はれる。

 現代の目で結果を見ると、惡い撰択ではなかつた。50ミリといふ画角は、主観の問題を横に置くと、対象…被冩体をやや注視するくらゐの感じ…詰り"眺める"と"見る"の中間…に近い。さういふ感じがする。この"やや"のお蔭で、解釈の余地が様々に残る。或は拡大出來る。技術の話は流したいが、被冩体との距離の取り方次第で望遠風にも広角風にも使へる点は、改めて指摘する必要がある。その辺りを我がオスカー小父さんは経験的に知つてゐた筈だし、ライカを追ひ掛けたカメラがそれを追認したと想像しても無理は少いと思へ、そこからごく粗つぽく、135判で50ミリが標準…基準扱ひになつたのは、ある程度の経験に裏打ちはされてゐても、結果的な、偶然の賜物だつたと云つていい。

 別の焦点距離を撰ぶ会社は無かつたかと思ふと、ローライ35があつた。テッサーだつたかの40ミリの固定。ただこれはライカと追随したカメラ群への対抗ではなかつた。断定するのは、このカメラが目測式だからで、理窟を細かくは云はないが、ピントを外しにくくするのが目的と考へていい。以降に出たEEカメラ…Electric Eyeの略で自動露光の意。若い讀者諸嬢諸氏は知らないだらう、えへん…が大体この辺りの焦点距離を採用したのは、50ミリよりやや広い画角が、撮る時のルーズさと厳密の双方を担保出來る事を、ローライから教はつたからではなからうか。

 實際のところ…訂正、正直なところ、50ミリは使ひ易い画角ではない。注視するならもう少し狭い方…55ミリとか60ミリ…が扱ひは樂だし、大掴みに掴むなら35ミリから28ミリくらゐの広角が好もしい。前段で望遠風にも広角風にも使へるとは書いたが、そこには望遠風にも広角風にも使へるだけの技術、テクニックを持つてゐれば、といふ括弧書きが隠されてゐる。少くない眞面目なヴェテランが

 「結局は50ミリ近辺のレンズに戻る」

と云ふのは、ズーム・レンズの利便や画角の極端に頼らなくてもいい辺りまで、そのテクニックを昇華させた結果だと思はれる。カメラの試作をしてゐたオスカー小父さんは、果してそこまで見越してゐたか知ら。

 併し不眞面目な素人(わたしの事である)でも、50ミリは慾しい。わたし個人の"標準"レンズは今のところ、28ミリに落ち着いてゐるが

・極端な大口径でない限り小振りで

・相応に近寄つて撮れ

・明るさに種類があり

・多くの場合は廉でもある

條件をすべて満たすのは50ミリであつて、28ミリや35ミリはそこが些か弱い。さう考へると以前のニッコールは凄みがあつたなあ。

 もうひとつ云ふと、50ミリ附きのカメラは恰好が宜しい。たとへばニコンNewFM2ニッコールコンタックスRTSプラナー。どれを取つても、他のレンズに較べて姿の収まりがいい上、基本中の基本を蔑ろにしてゐない雰囲気もある。かう書くと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは

 「すりやあニコンコンタックスなんだもの。きつとさうだらうさ」

と云はれさうでもあるが、FM10といふニコン銘の安カメラにシリーズE(これもニコン銘の安レンズ)の50ミリを附けても中々様になつたし、手持ちで云へばリコーのXR-8にペンタックスの50ミリ…Kマウント愛好家の為に云ひ添へると、レンズはSMC-M50ミリF1.7で、ペンタックス銘のスカイライト・フヰルタとタクマー55ミリ用のフードを附けてある…も締まつた感じがする。"感じがする"とは如何にも抽象的だけれど、カメラといふ物体は手に持つて恰好いいと思へるのが大切である。50ミリが"標準"レンズになつたのは結果であつても、"さうなつ(て仕舞つ)た"ところからカメラ全体の基本的なスタイルが出來たのだから、当然の話とも云へる。

 ここで我われ…いやわたしは、50ミリをデファクト・スタンダードに仕立てた筈のライカに似合ふのは、寧ろ35ミリである事を不思議に思ふ。たとへばライカⅢcにはズマリット50ミリよりズマロン35ミリ(わたしが云ふのはF3.5の初期型)の方が収まりがよい。

 「それくらゐの広角でライカは本領を発揮するんだ」

といふ意見は理解出來るが、それは後世の我われだから云へる事である。嘘だと思ふならライカ史をざつと見渡すと、實にM3に到るまで、ライツ社は50ミリのファインダを頑なに基本とし續けたと判る。ここはゲルマンの頑固さと手を拍つとして、50ミリは一眼レフの方が似合ふのも事實である。この辺はまことに主観的な見立てなので、異論が出るのは止む事を得ない。併しかういふ嗜好の変化は、親愛なるオスカー小父さんにも誤算だつたらうなと想像はしたくなる。

442 温故知新の山葵考

 山葵が日本原産の植物なのは知つてゐた。併し

 ・學名:Eutrema japonicum

 ・シノニム:Wasabia japonica

 とは知らなかつた。どちらにもjaponの語が含まれるのが象徴的ですな。學名とシノニムの細かなちがひまでは触れない。元は藥(草)として用ゐられたらしい。我われのご先祖は山葵の味と抗菌の効能を経験的に判つてゐたといふ事か。

 ではその経験をいつ頃得たのかと思ふと、千三百年から千四百年(以上)前…日本史の大きな区分で云ふと飛鳥時代まで遡れる。推古帝と聖徳太子のコンビから始り、持統帝に到る一世紀。佛教の伝來やら遣隋使の派遣、大化ノ改新と上代史が賑やかな時代であつた。その時代の遺構…奈良県の明日香村にある飛鳥京跡苑池遺構…で見つかつた、"委佐俾三升(委佐俾でワサビと訓むらしい)"と書かれた木簡が、今のところ最古の記録。詰り山葵はそれ以前から、記録される程度に認識されてゐたと考へていい。尤もそれだけでは

 「山葵が藥用だつたとは云へないのではないか」

さう疑念が浮ぶ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも同じだと思ふが、十世紀初頭に成立した(と思はれる)『本草和名』に山葵の記載があるといふ。本草は植物…やや狭く藥草の意なので、今風に云へば藥草辞典か。平安の辞典に載るのだから飛鳥京でも同じ扱ひだつたにちがひない。

 その山葵が食用に転じた、或は食用を主とするようになつたのは(残念ながらはつきりした記録は調べられなかつた)室町期辺りといふ。日本の飮食は多くがこの時期に確立した事を思ふと、当時の洒落者が山葵の使ひ方をあれこれ試したのだらうなと想像したくなる。もしかすると(こつそり)獸肉にもあはせたかも知れない。

 今ならお刺身か。ちよいと乗せ、醤油をつけて食べる。蕎麦でもつゆには落とさない。かう云ふと、なんだ丸太は

 「通を気取りやがつて」

と咜られさうである。なので云ひ訳をすると食べ方は滅多にしない。わたし程度がありつけるお刺身では、大体が粉山葵が添へられるもの、これなら寧ろ先に溶く方が、醤油がうまくなつて具合がいい。辛子だとどうなのだらう。随分と以前に八丈島料理を謳ふ居酒屋で食べた島鮨…種が何とも色鮮やかな早鮓…では辛子が使はれてゐたのを思ひ出した。

 後は何で山葵を使ふだらう。山葵漬けは實のところ苦手である。これは山葵の責任でなく、粕漬けが口にあはないのが理由らしい。山葵風味のお菓子も感心しない。蒲鉾や竹輪には似合ひますな。お吸物にも適ふ。ほんの少し落として香りを立たすのは、和食の素晴らしい知恵ではなからうか。

 ここまで書いてから、山葵の使ひ方はもしかすると、室町以來、激変を知らないのではないかと思つた。何しろ日本の固有種だから、プロヴァンス風鶉のサラド山葵ドレッシングだの広東風揚げ鱸山葵あんかけだの(鶉サラドや揚げ鱸があるかどうかは保證しませんよ)、外ツ國には用例を求められない。日本史を大きく眺めると、激変は必ず外部からの衝撃を起因とする。佛教と鐵砲と黒船を挙げればああ成る程と思つてもらへるだらうが、ここに西洋料理を追加しても異論は出ない…出にくい(だらう)と思はれる。その献立を見て

 「山葵(に似たもの)を使ふメニュが無い」

と気がついた料理人がゐたかどうか。疑はしいな。それとも試行錯誤の結果、歴史の彼方に消えたのか知ら。その辺の事情は判らないけれど、西洋料理の侵入といふ日本の食事史最大の衝撃、または外圧に山葵(の使はれ方)は殆ど影響されなかつた…詰り激変を知らないまま、使はれ續けたと見るのは間違つてゐないでせう。

 さて現代ではどうかといふと、大きな変化は起きてゐない感じがする。山葵の美味しさ普及協会辺りが旗を振つてもよささうに思へるが、この藥草はかなり神経質な植物であるらしい。水山葵に話を絞ると、栽培には綺麗で冷涼な大量の水が欠かせないといふ。さういふ水に恵まれなければ育たないとなると、収穫だつてごく限られて、廉価な流通は期待出來ない。保存も冷藏乃至冷凍で一ヶ月程度といふから、お刺身と鰻の白焼きともり蕎麦を毎日食べる富豪だつて、家で使ひ切るのは六づかしからう。詰り山葵をあしらつた料理を樂みたければ、少々奮發して、いいお店に出向かざるを得ない。

 粉山葵で十分といふなら(わたしはこつちに属する)、特賣の牛肉を買ふ方法は考へられる。たれに漬けたのを焼いて、粉山葵を小皿に用意しておけば、麦酒のいいお供になる。

 「それはちよいと、和食から離れてゐませんかね」

さう指摘する聲が聞こえなくもない。ただ一書に曰く、源平合戰の時代、敗け落ちた平家方の武者が山葵…勿論粉山葵ではなく…で鹿肉を喰つた(匂ひ消しと衛生を兼ねたのだらう)といふ。殺生を厭ふ佛さまの教へが我が國ではごくいい加減…でなければ表面的に尊ばれだつたのは今さら云ふまでもないが、そこに山葵が登場したのには驚いた。驚きながら、山葵の使ひ方の糸口になりさうだとも思つた。ジビエ…鹿、猪、鴨、兎、熊、山鳩…の料理に濁り酒を用意すれば、上代の直會…神事の後の宴會だと思つてください…を彷彿とさせる。山葵があれば上等だが、粉山葵でもまあいいでせう。先祖返りの振りをしつつ、獸肉の樂み方の幅が広がるのなら、我われのご先祖も悦ぶだらうし、japonの名にも相応しい。

441 忠實蒲鉾

 たまに蒲鉾を食べたいと思ふ。併し毎日食べたいとは思はない。蒲鉾はさういふ食べものである。幾つかの辞書から解説を引きつつ、取り纏める。

 

◾️大きく云ふと

 白身の魚を擂り身にし、調味料や片栗粉等を加へて練り、それを板につけ、或は簀巻にし、(時には)種々の形に細工して、蒸し、茹で、または焙り焼いた食べもの。

◾️名前の由來

 蒲の穂は、形が鉾に似ていることから"蒲鉾"と呼ばれてをり、竹に白身魚のすり身を塗りつけて筒状に焼いて作つた食べものが、これに似てゐた事から。

◾️材料の諸々

 初期には鯰。

 外にグチ(イシモチ)、鱧、助惣鱈、鯛、鱚、鰈、飛び魚、梭子魚、甘鯛、比目魚、鯊、烏賊、鱶、メヌケ、エソ、、ムツナ、キチジ、オキギス、北洋スケトウ鱈等。

◾️作り方色々

 ・蒸し:蒸籠等に入れ蒸気で蒸し上げる。小田原蒲鉾をはじめ関東の多くがこれ。色の白さから"白板"とも呼ばれる。

 ・焼き:蒸し蒲鉾を更に焼く"焼き板"と、最初から一枚づつ焼く"焼き抜き"の二種。腐敗を防ぐ為に行われた製法。

 ・揚げ:すり身を調味し、油で揚げたもの。一般には薩摩揚げ。関西では"てんぷら"、鹿児島では"つけ揚げ"とも。

 ・茹で:湯の中で茹でる。はんぺん、すぢ(蒲鉾)等。

 

 その外の蘊蓄を大まかに時系列で挙げると、『類聚雑要抄』(藤原親隆/久安二年/千百四十六年頃)に"蒲鉾"の文字がある。これは寝殿造の設へや調度を記した文書(これは"モンジヨ"と訓んでほしい)だが、藤原忠實が永久三年(千百十五年)の転居祝ひで宴会を開いた時の串を刺した蒲鉾が載つてゐる。『鈴鹿家記』(応永六年/千三百九十九年/詳しい事はよく判らない。題から察して個人または一族の記録か)六月十日の条には

 

 「鮒すしかまほこ香物肴種々台物五つ」

 

 なほこの本には、確認された最も古い"雑煮"の記載もあるとの事。これで平安末期から室町期にかけて、蒲鉾は中々のご馳走だつたと推測出來る。その室町幕府が終りに近づく頃の『宗五大草紙』(伊勢貞頼/享祿元年/千五百廿八年)には

 

 「かまぼこはなまず本也。蒲のほをにせたる物なり」

 

 天正頃(十六世紀後半から末期)から、板附き蒲鉾が作られるようになる。詰りここまでの"蒲鉾"は現代風のそれではなかつたと考へていい。實際それは魚の擂り身を竹などに塗りつけて焙つたもので、今で云ふ竹輪にあたる。

 江戸期に入ると板附き蒲鉾は煮る(熱を通す)ようになり、更に蒸し煮法が一般的となつた。この方が味は抜けにくいらしい。その江戸期に出版された『本朝食鑑』(人見必大/元祿十年/千六百九十五年)では蒲鉾の材料として鯛、甘鯛、鱧を上位、次いで比目魚、鱚、鯊、烏賊を挙げ、鱶や鯰は下としてゐる。一世紀半で鯰の地位は随分と低くなつた。

 そこから更に百廿年ほど下つた江戸末期の『守貞謾稿』(喜田川守貞/天保八年/千八百卅七年頃からの執筆。發刊はされなかつたらしい)は執拗で

 

 「今製は図の如く三都ともに杉板面に魚肉を推し蒸す蓋し京坂には蒸したるままをしらいたと云ふ板の焦ざる故也多くは蒸して後焼きて賣る江戸にては焼きて賣ること無レ之皆蒸したるのみを賣る」

 「江戸は百文百四十八文二百文二百四十八文を常とす蓋し二百文以上多くは櫛形の未レ焼物也」

 「三都とも精製は鯛ひらめ等を専らとすまた京坂は鱧製を良とす江戸は虎きすを良とす凡製のものは三都とも鮫の類を専らとす鮫の頭数種あり名を略す」

 

とある。ざつと調べただけなのに様々あつて驚いた。また蒲鉾の原形が日本で生れたのか、海外から似た調理法が渡つてきたのか、さつぱり判らないのも驚いた。魚肉と獸肉のちがひは措いて、ソーセイジに似てゐると思はなくもないが、蒲鉾を保存食とは呼びにくい。

 兎にも角にも贅沢な食べものだつたのは間違ひない。魚を擂るのが先づたいへんだし、焙るとなると燃料も使はなくてはならない。藤原北家氏長者であつた藤原忠實が(きつと得意気に)振舞つても不思議ではあるまい。平安貴族が今のマーケットで叩き賣りされる蒲鉾(かれらの時代に則せば竹輪も含まれる)を目にしたら、どんな顔つきになるか知ら。

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 さ。ここからは蒲鉾とは云ひつつ、竹輪もほぼ同じ食べものの意で使ひますよ。

 厳密な態度を取れば、材料はああで作り方はかうでと、八釜しい事になるのだらう。それはそれでいい。ただこの稿は常に厳密主義を避けるので、その辺りは踏み込まない。安直な(厳密主義者からは"蒲鉾擬き"と云はれさうな)蒲鉾は、その安直がいいもので、典型的な例として蕎麦屋の板わさを挙げる。かう云ふと眞面目な蕎麦屋

 「うちでは歴とした板わさを用意してゐます」

と眉を逆立てるにちがひない。さうだらうなあとは思ふけれど、こつちは蕎麦を啜る前の一ぱいに肴があればいい。蒲鉾の製法が本格でも変格でも一ぱいに適へば文句は無い。と書いて蕎麦屋の板わさ以外に蒲鉾を食べる機会はそんなにないのではないかと思つた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に

 「晩酌には何と云つても、蒲鉾に限るなあ」

山葵醤油で呑みながら呟くひとはをられるのか知ら。チーズや胡瓜をあはせたり、磯辺揚げを好むひとはゐる筈だし、わたしもまたそのひとりではあるのだが、毎晩欠かせないかと云ふと、冒頭に戻つてさうでもない。餅と同じく"ハレ"の食べものだつた記憶が残つてゐる…お正月には慾しくなるのも共通してゐる…からか。

 その一方、至極地味に濫用されてゐる気配も無くはない。大坂風の饂飩には欠かせないし、立ち喰ひの竹輪天麩羅(略してちく天)蕎麦も安価でうまい。崎陽のちやんぼんから蒲鉾を取り除くと淋しくて仕方ない。檀一雄は『美味放浪記』で、高知の波止場近くの店に潜り込み、麦酒を呑みながら竹輪を齧つてゐる。曰く

 

 一本の竹棒に、竹輪が二つずつ刺されている。高知の竹輪や蒲鉾は、口当りが軟かく、味がきわめて淡白だ。

 

寂れた港町の隅つこで、潮風になぶられつつ麦酒を呷り、竹輪をかぢる放浪の小説家の姿は、それ自体が画と呼びたくなつてくる。かれが食べたのは、水揚げされた魚の余祿のやうな食べものの筈で、わたしがたまに食べたいと思ふ蒲鉾は大きく云つてこつちの系統に属する。

 山葵醤油が妥当か知ら。さう考へると、蒲鉾の食べ方はえらく保守的ではないかと気がついた。山葵ではなく辛子や生姜、或は大蒜ならまづいだらうか。味噌や中華風の醤はどうだらう。マヨネィーズを使つたドレッシングやソースは適はないものか。歴とした板わさを出す蕎麦屋の親仁は腹を立てるかも知れないけれど、それは蕎麦屋の事情である。と書いて木ノ葉丼といふのを思ひ出した。鶏肉の代りに薄切りの蒲鉾の卵とぢを使ふ親子丼の変形。または少し豪華な玉子丼。蒲鉾を木ノ葉丼に見立てた名前である。安直安価でうまい。かういふのをごはんを別にお皿で出せば、ちよつとしたおかずになる。醤油や味醂で甘辛く味つけるのが基本だが、ここをどうにかしたら、麦酒やお酒だけでなく、葡萄酒や紹興酒のお供にもなるのではと思ふ。そのどうにかが問題なのだと云はれたらまつたくその通りなのだが、残念な事にそのどうにかが浮んでこない。このままだと忠實卿の引越し祝ひに持つてゆけさうになくて、困つてゐる。

 

【参考URL】

・紀文:練りものの起源

https://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/history/kigen/

コトバンク:蒲鉾

https://kotobank.jp/word/%E8%92%B2%E9%89%BE-466269

コトバンク:かまぼこ

https://kotobank-jp.cdn.ampproject.org/c/s/kotobank.jp/word/%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%81%93-46575/googleamp?usqp=mq331AQQKAGYAcWxssGxoejlBLABIA%3D%3D