閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

473 活用

 今どきの若ものには想像が六づかしいと思ふが、昔…四十年近く前、世間の片隅にエロ映画館といふのがあつた。エロチックな場面のある映画の意味でなく、文字通りのエロ映画で、ポルノ映画、ピンク映画とも呼ばれてゐた。にっかつロマンポルノと云へば、聞いたことがあるかも知れないと思ふひともゐるでせう。他にもオークラや新東宝の名前が記憶にあり、どこだつたか名前を失念した会社は、アメリカのポルノ映画を配給してゐた筈だ。詰り一定の需要があつた。当り前の話で、ダウンロード販賣は云ふに及ばず、家庭でさういふ映像を観る手段は皆無に等しかつた。当時の少年がエロに触れる機会といへば、エロ本とエロ劇画程度のもので、さう云へばビニール本といふのがあつた。路地裏の自動販賣機でひつそり…といふよりこつそり賣られてゐて、曖昧な記憶を辿ると一冊七百円とかそんな値段だつたと思ふ。肝腎の部分が黑く塗り潰され

 「牛乳とバタを適切に配合すれば、そこ、即ち黑塗りの部分をどうにか出來る」

といふ伝説があつた。試したことはない。何べんかお目に掛かる幸運はあつたが、實際見ると、どうも詰らなかつた。清廉潔白で純情な少年だつたからではなく、わたしの頭にあつたエロとビニール本のエロが、うまく噛み合はなかつただけのことである。それでポルノ映画館に足を運びだしたと云ふと正確ではない。当時の知人(同年代である)に誘はれ、大阪梅田の某映画館に潜り込んだのが最初であつた。何を観たかは丸で覚えてゐない。昂奮はした筈だが、いやどうだつたか知ら。映画館は梅田の目立つ場所に、堂々と看板を出してゐて、併しアンダ・グラウンドの空気は色濃く、緊張が先走つてゐたかも知れない。エロと酒席で緊張が走るのが好もしくないのは当然である。

 

 何を云つてゐるのだ、わたしは。

 

 ある夏、學生だつたわたしはアルバイトをして、VHSのビデオ・デッキを買つた。シャープ製で確か十万円くらゐ。物慾に駈られて働いたのはその一度きりで…いや待てよ、ビデオ・デッキ自体が慾しいのではなかつた。ここまでの流れで想像は容易かと思ふが、その頃レンタル・ビデオ屋が次々に出來てゐて、それでエロ・ビデオを観たかつたのである。性慾の顕れだつたのかどうか。併しポルノ映画の根本であるあの行為を實践したいと思つてゐたかと云へば少々怪しい。あの頃のわたしは女性を知らず、頭のどこかで、そのまま死ぬのではないかと思つてゐたし、またそれを悲観してもゐなかつた。一方でその行為に厭惡を感じてゐたわけではなく、寧ろ興味を強く持つてゐたのも間違ひはない。だから幾つかの名前は今も記憶にある。

 アリスJapan

 宇宙企画

 KUKI

 クリスタル映像

 桜樹ルイ

 松坂季実子

 村西とおるの"ナイスですね"とSMぽいの好き

 ああ、さうさうと膝を打つた諸彦はわたしと同じ小父さんなので、その手をどうにか誤魔化してもらひたい。それで問題があつて、当時のレンタル・ビデオはえらく高かつた。一泊二日で五百円が相場。旧作扱ひで三百円になるか、五百円のまま二泊三日だつたと記憶してゐる。また観るには家族の目を盗まねばならない。お小遣ひと時間が共に限られた中、一本を撰ぶのに非常に苦心したのは忘れ難い。多くのエロ・ビデオでは大体

 

 水着でのイメージ風(大体はプール・サイドか海岸)

  ↓

 インタヴュー(自己紹介、スリー・サイズ、初体験がいつだつたか)

  ↓

 場面が切り替つていよいよあの行為

 

 といふ流れがあつた。慈善にさういふ決め事があつたのでなく、エロ映像をビデオといふパーソナルなメディアで観せる作り方が成り立つ前の苦し紛れが、さういふ形で纏つたのだらう。同じことをしつつ、セーラー服やナース服といふ記号で、これはさう…女學生であり、看護婦…なのだと力説するのが精一杯だつたのではないか。ポルノ映画と同じだらうと思はなくもないが、あつちは映画だから早送りも巻き戻しも出來ない。荒唐無稽でも話を作る必要がある。照明やカメラ・ワークは参考に出來たとしても、丸々取り入れるのは無理がある。

 「こまつたなあ」

ビデオに参入した人びとは頭を抱へたにちがひない。映画であれば志のある数寄者が入つてくる期待はあり、實際にっかつロマンポルノ出身の映画監督を思ひ出すのはそんなに六づかしくない。ポルノは映画といふ大きな括りの中にあつたから、勉學好きな農家の三男坊が學者の養子になつて、その跡継ぎになるやうな立身の可能性があつた。この譬へ、をかしいかな。仮にエロ・ビデオの草創期以前にエロではないビデオでの映像が、ある程度受け入れられてゐれば、その技法を盗めもしたし、ポルノ映画であつたやうな、エロ・ビデオから映像家への転身だつて、有り得たかも知れない。實際は画のビデオ・パッケージ化(一万円をかるく上回る値段だつた)が殆どで、何をどう撮るか、まつたく手探りだつたにちがひない。尤もそれで工夫を凝らす余裕がなかつたか、何もそこまでと考へたか、おそらく後者だらうが、前述のセーラー服だのナース服だのといつた記号に、たとへば學校(教室)や病院(診察室か入院患者の部屋)やオフィス、或は電車やバスなどの場所、また若干のフェティーソな要素(ミニ・スカートやパンティ・ストッキングや水着)の組合せで体裁を整へるに留つた。現在のエロ・ビデオも細分化が進んだ(その過程は哲學が三千年を掛け、近代のサイエンスに分化したのを連想させるけれども)だけで、骨格は同じであらう。何だか堅苦しさうな話になつて仕舞ひさうだが、ただの連想だから気にしなくても宜しい。

 かう書きながら気附くのは、映像の作り方に文法…メソッドがあるとして、ポルノ映画からエロ・ビデオへの移り変りは、そのメソッドの決定的な分断だつたと思はれる。それは劇場映画とテレビ映画以上の解離分裂で、ポルノ映画の女優の大半(記憶にある名前は清里めぐみと朝吹ケイトのふたり)が、エロ・ビデオで鳴かず飛ばずだつたのは、間接的な證拠になりさうである。どうやらわたしは卅数年前、その劇変期に立つてゐたらしい。今となつては、もちつと注意深くあつてもよかつたと思ふのだがもう遅い。それにわたしの注意深さは揺れる乳房や弾む腰に向けられてゐて、開き直ればそれこそがメソッドの正しい活用であるとも思ふ。

472 定食

 家の近所に小さな飯屋がある。晝間は定食、夜はちよつとした呑み屋。まあよくある営業形態だと思ふ。それが諸々の事情で晝のお弁当と夜の持帰りになつて、夜はもとから足を運ぶ機会が少かつた(小さなお店だから禁煙なのである)から我慢出來るとして、晝の定食が中断したのはこまつた。毎日食べるわけではないが、"日替り"定食が中々に旨いお店で、わたしみたいな舌の持主には些か上品かと思へたりもするのだが、朝の珈琲を飲みながら、不意にけふの晝はあすこで食べるか、と思ふ樂みが奪はれたのは甚だ迷惑な話であつた。お店にも迷惑だつたにちがひなく、馴れないお弁当を賣り出しはしたものの、さういふ賣り方を考へてゐなかつた筈だから、そのあたふたした感じが気の毒に思へた。お弁当は"烏賊と大蒜の芽の旨辛炒め"と"細切り牛肉と大蒜の芽の炒めもの"を試した。作り方が何とも無器用だつたので苦笑はしたけれど、どちらも旨かつた。但し満足はしなかつた。お店で卓子についてゐたら、烏賊も牛肉も大蒜の芽も、もつと旨からうなと思つたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、手厳しいと云ひ玉ふな。それがやつと、(多少の制限はありながらも)以前の営業形態に戻つたのが最近で、"日替り"定食に、中華風肉豆腐とあつたから、これを食べないわけにはゆかんだらうと思つた。

 挽肉と野菜を醤油か味噌で甘辛いあんに仕立てて、炒めた豆腐に乗せてくるのだらう、きつと旨い。

 さう予想した。

 さうしたら豚肉。筍。青梗菜。人参。木耳。白菜。塩胡椒と醤油、薄つすらと生姜を効かせ、豆腐と一緒に炒められたのがお皿に盛られてきた。

 全部はずれた。

 いや全部外れは云ひ過ぎで、きつと旨いといふ予想は当つた。細かいことを云ふと、生姜の効かせ具合はもう少し強くてもよかつたと思ふし、豆腐は絹漉しより木綿の方がこの仕立てなら似合ふとも思ふ。また添へた匙が金属なのは感心しない。掬ひ易いのは判るけれど、豆腐と愉快なオール・スターズとは口触りが異なりすぎる。併し最初からまづい場合、なほす目的でも無い限り、細かいところは気にならないことを思ふと、上塩梅と云つていい。この"上塩梅"は老舗で鰻を食べた芥川也寸志が呟いたさうで、丸谷才一の本で讀んだ。耳のいいひとだなあ。わたしの中華風肉豆腐だつて、上塩梅では負けてゐないけれど…と断言するには、正直なところ、少し計りの不安が残る。作り置きのお弁当に不満があつたのが、一ぺんに解消されて嬉しかつたからで、贔屓が多分に混ざつてゐる。併しそもそもが気に入りの、詰り贔屓のお店で食べたのだから、批評が少々あまくなるのも仕方がない。

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471 シグマについて

 最初に買つたカメラはキヤノンのEOS1000QDで、EF35-80ミリレンズが附いてゐた。その後にシグマの70-210ミリを手に入れた。シグマを撰んだのはEFレンズより廉価だつたからで、70-210ミリにしたのは第一に素人が陥る"望遠レンズ"指向にわたしも陥つたからで、同じシグマの75-300ミリを買つた友人への妙な対抗心が第二の理由である。かういふ勢ひは怖いもので、その後に400ミリまで買つた。使ひこなせる筈もないのに、知らないとは大胆の種になる。暫くして望遠レンズは使ひにくいと悟つたので、24ミリを買つた。小振りな広角レンズで相当に寄れたのがその動機。同じ時期に28ミリの大口径もあつたのに、何故そちらを撰ばなかつたのか、今となつてはよく判らない。

 要するにわたしの撮影のごく初期に、シグマ・レンズは密接してゐたことになる。但しシグマでなくてはならないといふ積極的な理由があつたのではなく、偶々最初がさうだつただけで、それがタムロントキナーになつてゐた可能性だつて考へられる。刷り込みといふのは恐ろしい。

 そのシグマから距離を置きだしたのは、大口径化…高級化の方向がはつきりしてきた頃だつたと思ふ。価格云々はさて措き(と云へるくらゐに、お財布の余裕は出來る年齢となつてゐた)、ライン・アップが大柄なレンズで占められたのを見て、困つたなあと感じた。それを持ち出す自分が想像出來かねたからである。尤もその傾向をシグマ一社に押しつけるのは不公平で、タムロントキナーも、勿論キヤノンも、同じ方を向いてゐたし、今もそれは変るまい。

 「大きくて重くて、取回しが少々不便でも、それに値する冩眞が撮れれば、喜ばしいぢやあないか」

といふ意見は傾聴するが、さういふ体力的な苦辛を受け容れて撮りに行きたいと、二六時中思へるわけではない。撮るかどうかは判らないけれど、鞄にはふり込んで、気が向けば撮るのもまた、カメラの使ひ方の筈で、そんな時に"大きくて重い、併し高品位な仕上げのレンズ"を附けておかうと思へるものか知ら。職業冩眞家ではないわたしには、その辺りが不可解である。

 簡単に云ふと、中口径小口径のレンズがもつとあつたらいいのにな、と思つてゐる。28ミリF3.5や35ミリF2.8、或は24-35ミリF4-5.6…このくらゐの仕様なら、現代の光學設計で實に簡単な解を導けるにちがひない。そんなの

 「設計や製造は樂かも知れないが、どうしたつて儲けにはならないよ」

 「"撒き餌"レンズが精々だらうねきつと」

さうなのかなあ。と思ふのは(ここで話がシグマに戻る)、手元にマイクロ・フォーサーズ対応の30ミリF2.8があつて、幾らで買つたかは失念したけれど、ほどほどに使ひ勝手のよいレンズだからである。構造上、カメラの電源を入れて、撮影出來るまでに三秒前後の間があるのは、咄嗟に撮るひとには致命的な欠点になるだらうが、こちらには無縁の問題。ライカ判で60ミリ相当の画角は好みの分かれるところか。注視する感じはわたしにとつて惡くない。それなりに寄つて撮れもするし、忘れるほどの値段だつたことを思へば、文句を云ふのは筋ちがひといふものだ。残念ながらこのレンズは製造が終り、F1.4の明るいのに置き換つてゐる。急いで念を押すと、明るいレンズが駄目なのではなく、F2.8を残した展開をしてほしかつたなあと思ふのだ。

 ここでわたしの頭に浮ぶのは全盛期のニッコールで、50ミリ近辺にF2とF1.8とF1.4があり、マイクロ55ミリがあり、ノクト58ミリがあつた。予算と目的で撰べる点で、驚歎に値する贅沢さであつたと云つていい。ならニコンに求める話ではないかと云はれるかも知れず、さうだなとも思ひはするが(ニコンがシリーズEのレンズに目を瞑り續けてゐるのは、十年來の疑問であり、不満でもある)、令和の今、さういふ事を出來る…やらかすと云つてもいい…だらう会社がシグマしか浮んでこないのだもの。儲けになるかどうかとは会社にすると大した問題である…それが確かなのは認めるとして、レンズ・メーカーは、レンズを交換して撮れる冩眞が異なるといふ樂みを提供する会社でもある。あくがれに足る超高性能な一本も勿論、作つてもらひたくはあるが、小さく軽く暗いといふのは、持運びに苦辛が無い一点で、裏返しの性能と見立ても出來る。玩具的ではない、さういふ方向のレンズ群をシグマに期待するのは、無理難題なのだらうか。

470 本の話~がんらい何をしてもいい

『居候匆々』

内田百閒/福武文庫

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 がんらい何をやつてもいいのが小説で、併しさう云ひだすと何だか落ち着かない。とは云へ何とか定義附けを試みたところで、例外は幾らでも出てくるだらうし、その内定義そのものより例外の方が多くもなりかねず、千年も経てば、事情は異なる可能性はあるとして、こちらはそこまで生きるわけでもない。今のところは、はふり出したままとしておかう。さう考へたのは今回の本の所為で、概略の紹介から先づ六づかしい。昭和十一年に[時事新報]紙の夕刊に連載した、百閒の著作では唯一の新聞小説…と云つたところで、説明にはなつてゐない。目次を見ると

 作者の言葉

 居候匆々

 再び作者の言葉

 登場人物の其後

とある。わけが判らない。作者もよくは判つてゐなかつたのか、"作者の言葉"でこんなことを書いてゐる。

 

 様子が解らないので、これから先先の出来栄えをあらかじめお請合する事は六づかしい(中略)どうにも手にをへなくなれば登場人物を鏖殺にして、結末をつける外はなからうと考へてゐる。

 

 随分と剣呑な話で、不安になつた。[時事新報]紙上で目にしてゐれば、金輪際讀むまいと決意して終るけれど、わたしは文庫版を手にしてゐる。捲り始めた頁を止めるのだつて六づかしい。仕方がないから讀み續けるとする。裏表紙のあふり文句を信じると、獨逸語教授の家に書生として住むことになつた某大學の學生と、その周辺を"生き生きと描いた"小説だといふが、いきなり別の雑誌で高利貸しを主人公にした小説を書いたら、何人もの高利貸しが、おれのことを書きやがつたと怒つた挙げ句、中のひとりが"怒髪冠を衝"いて差押へをしてきたと始まつたから驚いた。高利貸しが居候になるのかと思つたら、登場人物を創るにあたつて、作者曰く"學校の先生を書くつもりであるから、つい二三年前まで同業に従事してゐた私に取つては、いろいろの差しさはりがある"苦心の話であつた。成る程。と感心はしたが、これでは随筆である。随筆がいけないと云ふのではなく、百閒先生の随筆は寧ろわたしの大好物なのだが、これは小説の筈である。何をやつていいとしても、小説になるのか知ら。また不安になつてきたところに、襖の向ふで奥さんが呼ぶ聲がして

 

 もう小説が始まつたのである。

 

平気でさう書いてゐるものだから、びつくりした。狡い。それで主人公の學生…万成君が話を始めるのだが、その話がまた頭も尻尾もよく解らない。本人だつて解つてゐないのではないかと思ふ。ここで云ふ本人は併し万成君なのかどうか。何故と云ふに、小説が始まる直前、百閒先生は

 

 青年に立ち返り、書生に化けて某先生の家に住み込まうと思ふ。

 

と書いてゐるからで、それが正しければ、万成青年は百閒先生の化けた姿といふことになつて、頭と尻尾の区別が附かぬ曖昧な話しぶりは作者のものと考へられる。その一方でこれは小説なのだから、万成君の語ることがそのまま、作者の語るところとは限らない。實にややこしい。こまる。

 さういふ讀者の困惑を知らぬ顔で、万成君は教授の渾名の由來について、授業の一場面について、クラスの懇親会について、お客について、駄弁をふるふ。どうやら大學の中で面妖な動きがあるらしく、また居候先の教授が"ああ云ふ顔をして、胸裡深く恋情を秘して"ゐた…教授は妻子持ち、奥さんは第二子を妊娠中なのに…のが露顕した騒ぎに巻き込まれかけもしたのに、話の欠片がぽつりぽつり、語られるだけである。すつきりしない。さういふ曖昧こそ、學生の日乗だと考へれば、その通りかも知れないが、惹句の云ふ"生き生き"にはほど遠い。落ち着かないなあと思ひながら讀み進めると、何となく何かに似てゐる感じがしてきて、先達があつたと気が附いた。百閒先生の師匠が著した、英語教師の家に転がり込んだ猫の話で、我らの万成君は、あの猫のやうな立場にあつたのか。と安心したのは自分でも少々不思議に思ふ。外の小説を讀みながら、これはたれの書いた何々に似てゐる…内容ではなく文章の系譜が…と感じることはあつても、それが安心に繋がつた経験は記憶に無いところを見ると、余程尻坐りを惡く思つてゐたらしい。

 それで上に記した學内の面妖な動きはどうやら卒業生も巻き込んだ教授陣の権力争ひらしいと解つてきて、露顕した恋情に奥さんの實家も関りさうな気配がしてきて、この小説はいきなり終る。正確に云ふと、この小説の小説の部分がいきなり終る。冗談ではないよと云ひたくなつたが、そこから續く"再び作者の言葉"に目を通すと

 

 漸く三十六回まで書き進んだ昭和十一年の暮十二月二十四日に、明治以來五十五年の歴史を誇つた時事新報が沈没

 

して、作中人物のみならず、"作者自身までが波間に漂ふ様な羽目になつたのは、誠に意外の事であつた"とあつて、百閒先生に意外なのだもの、讀者のわたしが呆気にとられるのも止む事を得まい、と妙な具合に説得させられる。何しろ作者の責任ではないもの。すりやあ仕方がないよね。さう思つてからいや待てよ、万成青年に化けた百閒先生は無事なのか知らと不安になつた。びつくりしたり落ち着かなくなつたり、不安になつたり、まつたく慌ただしい。先生はあれこれ裏話を書いてゐるが、波間に漂ふ羽目…要は未完に終つたのに、えらく暢気な態度だなあ。さてそこで思ふのは、この小説を全卅六回のまま投げ出せば、それは本当に未完である。

 「そこに何かしらを附け足せば、小説…本として世に送れさうである」

ではないですか先生と編輯のたれかが云つたか、或は百閒自身が考へたのか、そこは解らないが、その何かしらが、"再び作者の言葉"と"登場人物の其後"で、うまいことをしたものだと思ふ。連載が中途半端になつたのが、この場合はいい方向に繋がつたので、漂ふ波間で掴んだのは藁ではなかつたことになる。神経質な、もしくは生眞面目なひとは

 「最初の構想はどうだつたのだらう」

と気を揉むかも知れないが、作者は冒頭言で、"先先の出来栄えをあらかじめお請合する事は六づかしい"と書いてゐるから、その辺は最初から曖昧だつたのだと思はれる。仮に何か腹積りがあつても、今からそれを確める術はないし、がんらい何をやつてもいいのが小説と考へれば、我われの目の前にあるこの本は、その考へを實に判り易く示してゐる…と、ここまで色々と書き散らして、この本の話を實は殆どしてゐないのではないかと不安になつた。なのでひとつ、会話の描冩がまつたく美事と(大急ぎで)触れておく。ことに學生連中の生意気さといい加減さと慇懃で無礼な口吻が巧妙で、百閒先生の耳は(大學教師だつた経緯はあるにしても)余つ程敏感だつたに相違ない。『浮雲』を経て江戸の戯作に遡れる藝かとも思へて、その一点を味はふ目的で讀むのもいい。

469 ライカM4-2のこと

 昭和五十一年にライカ社からM4-2といふ機種が發表された。昭和五十三年から五十五年にかけて、一万六千百台が造られた。ざつと確かめた限り、Mバヨネット・マウントのライカでは最も製造期間が短く、また台数の少い機種である。

 この時期のライカは会社としてがたがたであつた。大掴みにライツ従來のカメラ造りが、日本の一眼レフに打ち倒された時期に重なると云つていい。それで経営が立ち行かなくなつた結果、スイス某社の傘下に入り、栄光あるライツ社はライカ社となる。

 「これからは安価で利便性の高い一眼レフの時代だ」

ライツを吸収した親会社が判断したのは、殆ど直ぐだつたと思へる。昭和五十年にライカM5、翌年にライカフレックスSL2の製造を終らせ、ミノルタと提携したライカR3へ移行してゐるのは間接的な證明になると思ふ。そのR3が成功してゐれば、詰り目論見通りに賣れてゐれば、ライカ社はおそらく、一眼レフへと完全に乗り換へてゐただらう。さうはならなかつたし、それが幸か不幸かは判らないけれども。

 スイス人はライカといふブランドには敬意を払ひながら、ライカといふブランドを使ふひとにまで、目が向いてゐなかつた気がする。

 「電気仕掛けの一眼レフが"ライカ"だつて。巫山戯てゐるのでは、あるまいな」

と考へたライカ・マニヤはきつと少くなかつた筈で、その不満乃至不安は正しかつた。(旧)ライツ社は、自分の手に余る(と考へた)技術の取込みに、きはめて慎重だつた。本当かなあと疑ふひとは、コンタックスⅢ型を思ひ出さう。昭和十一年の時点で、既に(形態は不細工だが)露光計を内蔵させてゐる。ライカが追ひついたのは昭和四十六年のM5である。試作は(何度も)してゐただらうが、製品として出せると判断出來るまでにそれだけの時間を要したのは、寧ろ臆病と呼べるかも知れない。マニヤがさういふライカ史をスイス人より熟知してゐたのは云ふまでもなく、東洋のよく知らない國の技術を取入れた"電気仕掛けの一眼レフ"に反發したのは、一応のところ納得がゆく。ある本には

 ミノルタと技術提携してからのライカは、まるでミノルタのように、いいかえれば、安手の国産カメラのようになってしまった。

といふ一節があつて、痛烈な批判を通り越し、罵倒と云つていい…それもライカだけでなく、ミノルタまで強烈にくさした…口調である。わたしはそこまでとは思はないし、R4からR6に到るライカ社の一眼レフだつて、惡かあないと云ひたいのだが、この稿ではその辺りまで踏み込まない。

 ところでMバヨネット式のライカを出せといふ聲がどの程度だつただらう。ライカ社が無視出來ないくらゐの圧力を感じたと想像するのは許されると思ふ。或はライカ社内でその聲を聞いた社員が、親会社に詰め寄つたか。さういつた事情も無いまま、ライカ社が僅か三年でその再生産に踏み切らうとは考へまい。尤も当時のライカ社員が、どんなライカを造らうかとはつきり意識してゐたかは、甚だ疑はしい。これまでの経験や、倉庫に残つた部品で、兎にも角にも

 「Mバヨネット・マウントのライカを造る。後の機種はそれから考へれば宜しい」

と思つてゐたのではなからうか。その結果、手探りもなく、拙速で用意されたのがM4-2で、上記とは別の本に

 M4-2はM4の改造モデルで、基本のコンセプトはM4(中略)短期間では、新しいライカの設計はできなく、取りあえず前の前のモデルM4を改造して発売したのである。

と書かれてゐるのは("基本のコンセプト"とは妙な云ひまはしだが、そこは目を瞑らう)、こちらの推測が必ずしも的外れではないことを示してゐる。實際製造はかなり大慌てで始つたらしく、幾つかの本から引くと

 刻印には(中略)「Leitz Wetzer」と「Canada」の刻印が同じカメラに同居している「間違いモデル」もある。

 ライカM型の昔日の滑らかな操作感覚というのは失われている(中略)ライカが往年のライカから、「実用物」としてのライカの時代になる。

などとあるし、ワインダーの使用が可能になりはしたが、初期型は"整合性に問題があり"、調整が必要だつたとも書いてある。ここでM4-2のバリエーションを大まかに纏めると

・ごく初期のロットはウェッツラー製だが、それ以外はカナダ製。

・最初期型には、本体の正面に赤丸のライツのマーク。

・軍艦部LeitzまたはLeitz Wetzerのロゴ。

・基本の仕上げはブラック・クローム。例外的に特注品と思われるクローム、オリーヴ、及びグレー仕上げもあり。

これらとは別に、オスカー・バルナック生誕百周年記念の金鍍金モデルがあつて、生産台数から考へると、種類の多さは異様なほどと云つていい。繰返しになるが、当時のライカ社が如何に慌て、また混乱してゐたかが想像出來る。

 我われはここで、更に卅年余りを遡つて、ライカⅢcを思ひ出したい。あの機種には戰前戰中戰後の、ドイツ帝國が混乱し、崩壊から分裂に到つた時期に造られたあふりを受け、特殊でまた奇妙なモデルが幾つもある。背景に横たはつた事情はまつたく異なるし、その混乱にも関はらずⅢcには、ねぢマウント・ライカを完成させた栄光(異論は出るだらうなあ)が認められるのも、大きなちがひではあるが、当時のライツ社が、我を失ひかねない状態だつた点は、卅余年後のライカ社と似通つてゐる。併しM4-2は一言で、"残念な機種"と呼ぶしかない。ライカ社が残念な状況だつたからではなく、残念な状況に甘んじて造られたからで、今のライカ社幹部にとつては、触れられたくない機種の筆頭ではなからうか。

 と云ふだけ云つてから、M4-2はそこまで云へるのが、いいのだと書くと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと呆れるにちがひない。ちがひないのだが、わたしは本気で云つてゐて、ライカのメイン・ストリームに位置附けられながら、他の機種に較べて一段ひくく扱はれてゐるからである。冒頭で生産が一万六千百台と記したのを思ひ返してもらひたい。ねぢマウント・ライカの最終機であるⅢgは倍以上の四万台ほど、Mバヨネット・ライカオルタナティヴまで目を向ければ、MDaが一万四千台余り(M4-2とほぼ同じくらゐ)の生産台数なのに、人気…マニヤの支持、或は中古市場の扱ひで、M4-2はまつたくふるはなくて、そこが、宜しい。あはてて念を押すと、捻ね者を気取る積りは丸で無い。"ライカといふ値うち"のひくさが、使ふ時の気らくさを呼び込んでゐる風に感じられるのがその理由で、我が熱心なライカ愛好家の諸嬢諸氏にも、この点は認めてもらへさうな気がする。

 「そんならM4-Pはどうだらう」

といふ疑念は浮ぶのだが、M4-PはM6の為の實験機の色合ひが濃い。M4-Pに露光計を組み込めばM6だし、生産が並行してゐた時は、M6の部品をM4-Pに廻しもしたさうだから、ほぼ同一と見なしてかまはず、M4-Pを積極的に撰ぶ理由は稀薄になる。ブライト・フレイムが六種三組と煩雑になつてゐる(これはM6も同じ)のと、本体正面の赤丸マークがどうにも好きになれない事情もあつて、それならライツ・ミノルタ銘のCLの方がいいのだが、メイン・ストリームの機種ではないから、今回はあれこれ云ふのを控へる。

 もうひとつ、M4-2だつたら、レンズがライツ・ライカ製でなくても気にならない。ニッコールやセレナーは勿論、ロッコールやGRといつた物好き向けの限定レンズでも、ヘキサノンでもコシナでもアベノンでも、ロシヤ…訂正、旧ソヴェトのジュピターやオリオン、ルサールでも、或は旧コンタックス用のツァイスや各種の一眼レフ用のレンズにアダプタを噛まして使つても、ライカ・マニヤから

 「丸太の野郎、ライカの品格と歴史を冒瀆する積りか」

と罵られる心配はあるまい。この場合、歴代のメイン・ストリーム中で、"格が低い"位置附けが寧ろ利点になつてゐる。惡趣味と云つてもいいが、これでM3やM2にルサールを附けたら、イワンのレンズを使ひやがるのかと、本気で怒りだすひとが出てくるだらう。さういふ惡しき純潔(または純血)主義からある程度の距離を置きつつ、惡趣味も趣味の内だと居直れれば…ここがまた六づかしいのだが…、M4-2は恰好の一台になつてくれさうな気がされる。余程の冗談好きでなければ、薦められないけれども。

【参考:引用順】

・間違いだらけのカメラ選び(著 田中長徳/IPC)

・新M型ライカのすべて(著 中村信一/朝日ソノラマ)

・ライカポケットブック(著 デニス・レーニ/訳 田中長徳/アルファベータ)

・くさっても、ライカ2(著 田中長徳/アルファベータ)