閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

634 茹でるのと思想と

 茹で玉子を偶に食べたくなる。こまる。といふのも、わたしは卵の買置きをしない…食べきれずに傷ますのは勿体無いもの…からで、茹で玉子を食べるのと、卵を買ひに行くのはほぼ一直線に結びつく。

 三個。小鍋に置いて水をたつぷり張り、塩は入れず、弱火で。沸騰してきたら火を止め、粗熱が取れるまではふる。これで、わたし好みの堅茹で玉子が出來上る。

 ひとつは速やかに殻を剥いて食べる。塩或はマヨネィーズが基本。黄身の部分に醤油を染ませてもいい。残る二個はホークで崩し、ツナ缶なぞと混ぜる。市販のポテト・サラドを足してもいい。サンドウィッチの種になる。濃縮のつゆを落として、刻んだたくわんを入れれば、ちよつと風変りなおかずにもなる。詰り茹で玉子はすこぶる重宝する。

 

 ここでちよいと話を逸らせば、すこぶると聞けば宮武外骨を思ひ出す。讃岐のひと。レイアウトやデザインの概念が成り立つ前の我が國出版界で、それらを雑誌の形で實現した人物。その雑誌の多く…大半は冗談と諷刺をパロディでくるんでゐたから、時の政府から随分と睨まれた。なのでかれは雑誌をば出して潰し、潰しては出した。但し例外もあつて、ひとつは『滑稽新聞』、もうひとつが『スコブル』であつた。気になるひとは画像でも探せばいいが、この"スコブル"が凄い。極太の活字を特注で作らせ、表紙だけでなく、誌面の到るところに、極太の"スコブル"を配してゐる。慣用句の"すこぶるつき"を、視覚で直接的に示したわけで、藝術を飛び越し、いきなり表現まで達してゐる。文章家と言論人と編輯者と出版者を兼ねた宮武だもの、出來ただらうさと云ふのは正しいが、ぢやあかれ以來、さういふ人物の名前を聞かないのは資質の問題なのか、業界の規模が大きくなりすぎて、兼任には無理が出るくらゐ、専門性が高まつたからか。すこぶる不思議に思へる。

 

 すこぶるに戻つた。では話を、茹で玉子まで戻さう。

 どれくらゐの堅さに茹でるか、といふのは案外な難問かも知れない。前述のとほり、わたしの好みは堅茹でだが、黄身は軟らかな方がいいと思ふひとも、温泉卵のやうに全体がとろりとするのを喜ぶひともゐて、かういふのは結論が出ないと相場は決つてゐる。

 たとへば牛丼なら、温泉卵くらゐ軟らかいのがいい。用心しないと黄身が中途半端に堅くなるけれども。立ち喰ひ蕎麦のもりにも似合ふ。つゆに崩し入れ、七味唐辛子を少し振ると、宿醉ひの晝に具合がいい。六づかしいのは饂飩で、堅茹で玉子の輪切りを浮べ、つゆに溶かしながら啜るのはうまいと思ふのだが、賛意を得られる自信が無い。

 上の例では、茹で玉子を調味料的…牛丼やもり蕎麦や饂飩の味附けとして扱つてゐる点が共通してゐる。茹でた玉子自体を味はふなら、ある程度の堅さ…その線引きがまた厄介なのだが…が必要らしい。これは書きながら解つたことで、文字にするのは大事です。ふはふはしたものを塊に出來る。

 そこから聯想するに、生卵を"考への纏まらない、漠然とした状態"とすれば、茹でる…文字に置換へる行程を経た茹で玉子は、それがある程度、或はがつしり固まつた状態と云へる。尤も堅さそのものより、固め方、見せ方が大事なのは念を押すまでもあるまい。再び宮武外骨に登場を願へば、かれは文字を文章の構成要素としてだけでなく、形状を記号的に扱ひもした。前述した極太活字は、単語の意味より、その極太度合に意味があつて、これは思考の沸騰を十分に経た堅茹で玉子と云つていい。他方ではまつたく意味の無い伏字を多用した…検閲を揶揄ふのが目的の文章を書いてもゐて、茹で方のちがひが、味はひのちがひになつてゐる。

 また茹で玉子から話が逸れたと(苦笑を浮べる)お思ひの讀者諸嬢諸氏もをられるだらうか。居直つた態度を取ると、思想が硬直してはならんのと同じく、茹で玉子だつて堅茹でから温泉卵まで、自在に使ひ分けてこそ、茹で玉子の本來であると思はれる。譬へに出した外骨先生には咜られるかも知れないから、讃岐の饂飩に茹で玉子を落として誤魔化したいけれど、さて、茹で具合はどうすればいいだらうか。

632 数字の示すもの

 オムレツを焼くのは随分と六づかしいといふ。ここで云ふのは西洋風のオムレツ。映像で見ると、くるくるとんとん、なんてこともなささうにフライパンを操つてゐるが、くるくるとんとん操るだけで、溶き卵がアーモンドのやうに纏まるのだから、容易い技術の筈がない。わたしが試すと"分離し損ねた炒り卵"に必ずなつた。だからもう何年も時分で作らうと思つてゐない。

 要するに溶いた卵をバタでやはらかく焼く…といふおそろしく単純な調理法で出來るのがオムレツであつて、これだけ単純ならば

 「たれが作つても同じ」

仕上りになる方が寧ろ不思議といふものだ。料理人が樂らくと感じさせる手捌きでくるくるとんとん、フライパンを振るのが惡い…いやそれは流石に失礼であるか。

 ならば"火を一ぺんに通す"技法(の見た目)が、如何にも簡単に感じられるのが惡いと云ひませうか。

 さう云つて炒飯を聯想した。焼き飯ではありませんよ。あつちは休日の午后に親が作つてくれるひと皿を指す。ハムの切れはしや(魚肉)ソーセイジや竹輪が入つたやつ。手際の宜しきを得ないと、焼き飯といふより、ごはんの油炒めになつて仕舞ふが、それも含めて旨かつた。わたしが少年の頃は、ウスター・ソースを垂らして頬張つたなあ。

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 勿論プロフェッショナル、詰り自分の料理でお金をもらふ料理人に、"ごはんの油炒め"を作られるのはこまる。こんなことを云ふと

 「では炒飯とはなんだ」

と、どこかの漫画で目にした科白が聞こえてきさうだが、ここでは踏み込まない。大まかに"ごはんと卵をぱらつと炒めた"料理くらゐに考へておくとして、この"ぱらつと"が六づかしい。らしい。その為の技法にも(矛盾する)諸説があつて、いちいち例を挙げるのは面倒だから省略するけれど、一見簡潔な調理法がその諸説の苗床になつてゐると想像しても、大間違ひとは云はれまい。

 わたしですか。自分では作らない。焼き飯なら兎も角、炒飯を食べたいと思つたら躊躇なく食べに行く。オムレツと同じく、簡潔ゆゑ技倆の求められる食べものは、プロフェッショナルに任せるのが最良の撰択だもの…さう考へて食べたのが画像の炒飯、ならば、多少は恰好いいと思ふのだが、残念ながら事は都合よく進まない。不意に品書きの"五目炒飯"が目に入つたから、その気になつたのである。

 お椀を伏せた姿で出なかつたのは減点。

 匙が金属製であるところも矢張り減点。

 併し醤油の炒まつた匂ひはまことによろしい。更に食べるとうまい。それで形は気にならなくなつた。金属の匙の口当りは感心出來なかつたが、不愉快には到らなかつたから、文句は云はないことにする。

 食べながら目を動かした。品書きには五目炒飯とあつたから、實際に五目…五種類の具を扱つてゐるのか知らと思つたんである。目立つたのは海老(小さいのが二尾)、それから炒り卵と叉焼。後は葱で、四目ぢやあないかと云ひたくなつたが、その葱は青白が使はれてゐた。

 (成る程ここを峻別して五目なのだ)

納得しつつ、匙を動かしつつ、ところで五目炒飯の五目は五種類の具を指すのだらうかと思つた。我が國の八百萬の神さまの八百萬は、八百萬柱といふ具体的な数でなく、途轍もなく大勢を意味するでせう。それと近似で、五目とは"玉子だけではない"ことを示す一種の記号と考へられまいか。さう云へば八寳菜の八寳は八種の具…野菜の意味なのか、多くの野菜をたつぷり使つてゐますよといふ意味なのか、と考へたところで、五目炒飯のお皿が空になつた。

630 好きな唄の話~サマーヌード

 夏はエロチックである。

 我が國詩歌の伝統を顧みるに、夏に唄ふのは、夜に吹く秋を思はせる風や、水面に映る月蔭の涼やかさである。『枕草子』にいはく。

 

 夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くも、をかし。雨など降るも、をかし。

 

清原ノ少納言が書いてゐるくらゐだから、本当の話。

 

 確かに照りつける陽射しも流れる汗も褐色に焼けた肌も、夏を唄ふには相応しくない。暑苦しいだけぢやあないか。

 

 陽が落ち、昏い夜空を彩つた花火の灯も失せた海岸。

 たまには、いいよね。と泳ぐ彼女はTシャツを纏つたままで、その姿を見つめる"ぼく"の、恋人だらうか。

 併し歌詞を聴けば、"ぼく"は彼女の姿を愛でながら、神さまの目を盗んではしやぐ子供のやうだと云ひながら、嫉妬に心を毟られてゐるやうでもあつて、一体ふたりはどんな関係なのか知ら。

 唄は曖昧な、詰り想像の余地をたつぷり残したまま終る。ひとによつては、ことに若い讀者諸嬢諸氏には不満も残るだらう。とは云へその曖昧は、唄はれるふたりの関係、物語を豊かに(そしておそらく唄ひ手の意図を飛び越して)、夏の夜をば、エロチックに彩つてゐる。