閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

005 由無し言の

 今の世の中、手帖を常用するひとは一体どの程度なのだらう。見掛ける機会が多くないから、少数派と考へられるし、時節になると手帖賣場が混雑する様を思へば、それなりの利用者がゐても、をかしくない気もする。わたしは使つてゐます。この数年は高橋書店のを愛用してゐる。まあ満足と云つていい。点数にすると、七十点辺りか。まあ満足と云ふ割には、辛めの採点と思はれるかも知れないが、値段と出來を見て、これくらゐの点数を維持してゐれば、立派だと思ひますよ。駄目な手帖には点数がつけられないもの。

 

 すりやあ、小さな不満はある。ラパー(本で云ふ表紙にあたる場所。カヴァとも呼ぶけれど、ラパーの方がいい響きだと思ふ)が安つぽいのは感心しないし、旧暦や二十四節気が載つてゐないのも気に喰はない。方眼罫好みからすると、記入する欄が横罫なのも些かこまる。序でにペン挿しが使ひものにならないのも、どうにかならないかと感じるのだが、こんな風に書くと、その不満を使ひ方で工夫するのが手帖の愉しみでせうと反論されさうで、勿論それを誤りと云ふ積りはない。ないけれど、それは主従関係でいへば従の方。工夫を要する前に、ある程度はこちらの要望が満たされてゐなければ、お話にならないでせう。それに工夫してまで使ひたいと思へる手帖は、今のところ、見たことがないのです。

 

 手帖と簡単に書くと、公私を問はず、予定の管理が連想される気がする。わたしだつて、さういふ使ひ方をする。しないわけではない、のだが、それを使ひ途の順位で見れば、低い方になる。をかしいと思はれるかも知れないが、事實は事實なので、では高い順位はなんだと訊かれれば、たとへばどこで何を食べたかとか、他人さまには見せられない(正確には見られたくない)五七五や天気や腹の具合、後は精々、旅行の前にメモをするダイヤグラムくらゐだらうか。ひどく古風な日記帖のやうだなあと思つた貴女、大体のところ、確かにさういふ感じがする。

 

 そんな使ひ途なら、スマートフォンでもパソコンでも出來るでせう。寧ろその方が簡単ぢやあないか。

 

 といふ指摘は一応、正しい。實際わたしもスマートフォンの"メモ帳"の機能やら、Googleのカレンダーやらを使つてゐる。ただそれ(ら)は主従の主ではなかつたし、これから主になる可能性も低いといふだけのことで、待てよ、どうして低いと云ひ切れるのだらうな。ちよつと不思議に思へてきたぞ。…と書く以上、多少は考へるところがあるもので、簡単に云ふと、どうも信用するのに足りない。流石にわたしが死ぬ前に、Googleが潰れる心配はなからうが、カレンダー機能が変更される可能性はあるでせう。また多かれ少なかれ、容量には上限がある。手帖にだつて紙数はあるけれど、尽きたから駄目にはならない。スマートフォンの"メモ帳"に到つては、本体を用ゐる間だけの利用だから、事實上の使ひ捨て。気に喰はないねえ。手帖だつたら、どうだらうか。

 

 日記帖のやうに使ふとなると、長期の保存に向いてゐるかどうかが、優先順位の高い位置を占める。さうなると扱ひの容易さは兎も角、電気とネットワークがあつて成り立つ方式では、些か心許ないと思ふ。紙とインキがあれば、予定の管理でも日記風のメモでも不可能ではないし(後が面倒さうだが)、仮にレシートの裏に書き付けたとして、その紙片もまた、日記的に扱へる。ここで云ふ"日記(的)(風)"には、記録に近い気分を含めてゐるので、念の為。

 

 さて。日記乃至記録といふ視点で手帖を考へると、どうしたつて『断腸亭日乗』が浮ぶ。あの偏窟な爺さんは、巷間と戰争、兄弟と軍人と新聞記者と、かれが生きた時代を罵倒し續けたひとだつたが、どうやらそれは綴り合せた和紙に、筆墨で書かれたらしい。江戸好みの荷風にとつて、当り前の組合せだつたのだらうな。確か谷崎潤一郎も筆墨硯紙の愛好者で、『陰翳礼讚』でも触れてゐたと記憶してゐる。ふたりの大文學者の筆記具に対する嗜好が近いのは、両者の相似する点…エロチック好みや、やもすれば現代を否定しかねない前近代的なものへのあくがれ、或は外國語の骨骼を得た文章…と何か関係があるのか知ら。

 

 その辺は眞面目な研究家の教示を待つとして、實際のところ、和紙と墨の組合せは可也り頑丈であるらしい。水墨画もさうだし、筆冩された文書(ここはモンジヨと讀んでもらひたい)を見れば、成る程さうだと納得がゆく。さう考へて気になるのは、水墨画は兎も角、西洋で筆墨硯紙にあたるものは何だらう。パピルスや羊皮紙から先が出てこない。なーに、無學文盲が多かつたんだらうさと鼻を鳴らせばいい気分になれはしても、たとへば高位の聖職者は、そのまま知識階級であり貴族階級でもあつたから、さういふ趣味もありさうなのに。

 それとも僧が好んだのは、ヴェネツィアの硝子細工のやうに、繊細で實用性に欠けるものだつたのだらうか。以前にサントリー美術館で見た、ヴェネツィアン・グラスの酒器は触れるのも躊躇はれる仕上りだつた。職人の腕は大したものと感心はしても、これで葡萄酒を呑みたいとは思へなかつた。葡萄酒を相手にするなら、唇への余韻が少なくなるシャープさが求められるとして、大きな好みで云ふと、古拙でぼつてりした厚みがある方が好もしい。

 

 仕舞つた、話が逸れた。

 

 急いで戻ると一体に手帖は實用の物体である。でなくてはならない。ヴェネツィアの職人が贅を凝らしたグラスのやうな革細工を施した手帖があつたとして、ウェイスト・バッグやポーチにはふり込んで当り前に持ち歩けるだらうか。平気だよと思へるひとは少数派にちがひなく、わたしが多数派に属するのは改めるまでもない。要は手に馴染む大きさの、書きやすい紙で、しつかりした縫製であれば宜しい。その結果で少々割高になるとしたら、そこはやむ事を得ないでせうね。

 大体がわたしの書かうとするのは、前述のとほり、由無し言が主。かう書くと卜部の法師を気取るみたいだが、さういふ一面…気分は確かにあつて、その気分に豪奢は似合はない。隠遁趣味までは持合せてゐないものの、優隠者風に手帖を使ふなら、綴あはせた和紙に筆が一ばん似つかはしいかと思へる。風呂敷に矢立と共に包んで持ち歩くなんて、野暮も粋も通り越した感じになつて、かういつた使ひ方は、スマートフォンでは絶対に眞似出來ないだらう。

 

 尤もその括りで云ふと、高橋書店だつて、眞似は可也り六づかしくなる。荷風山人や大谷崎の域に到るには、まだまだ道は遠い。