閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

012 本の話~文字を食べる宵

『私の食物誌』
吉田健一/中公文庫ビブリオ

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  食べものの話は六づかしい。お喋りの場なら表情や聲音、身ぶり手ぶりの助けを得られるから、まだ救ひはあるが、文字で話さうとするのは至難の域ではないかと思ふ。わたしの讀書量なんぞ、大したことはないが、一讀に値するくらゐなら多少はあつても、再讀三讀に値する本になると、さあ、どうだらう、見つけること自体、困難に属する印象が強い。實際もさうではないか知ら。

 手元にある中で云ふと、サヴァラン教授の『美味礼讚』(岩波文庫)はまあ例外…殿堂入りとして、『檀流クッキング』(檀一雄/中公文庫ビブリオ)と『食通知つたかぶり』(丸谷才一/文春文庫)は推奨に足る。高名な『魯山人味道』(北大路魯山人/中公文庫)や『食は広州に在り』(邱永漢/中公文庫)は、ちよいともの足りなかつたけれど、『料理歳時記』(辰巳浜子/中公文庫ビブリオ)は『檀流クッキング』と併せて、台所に据ゑるのが望ましい。そこで『私の食物誌』になるのだが、これは前述した檀と丸谷の本に並ぶ名著…即ち旨さうな一冊である。この"旨さう"なといふのが、食べものの本の要諦で、かう書くと、再讀三讀に値する本が少ないと云つたのも、理窟があると感じてもらへるのではないか。

 但し、とここでつけ加へるのがよささうな点があつて、この本が数少ない食べものの本の名著なのは疑念の余地がないとして、少々の馴れが要求されるんです。ラフロイグといふスコッチの一種があるでせう。非常にうまいヰスキィなのだが、アイラ島の泥炭の香りが獨特で、好ききらひがはつきり分かれる。馴れれば病みつきといふが、これは馴染めなければそれまでといふ意味でもあつて、念を押すとよし惡しの話ではない。或は焼酎や泡盛の一種にも、香りや舌触りに癖のある銘柄があり、矢張り呑み手を撰ぶ。吉田の文章にはさういふ一面があつて、濃厚芳醇で滋味が豊かでもあるのだが、讀み辛いと思はれることもありさうな気がする。

 

 これを食べていて頭に浮ぶものが東北の長い冬や雪や日本海の暗い色ではなくて日が差している春の野原であるのはこの味噌漬けにもこの地方の冬に堪えて生きている人達の念願が籠っているのだと思う他ない。

 

 "東方の味噌漬け"について触れた一節で、讀点が見られないのは引用の誤りでなく、かう書かれてゐる。ぱつと見て、すつと讀める文章とは呼び難い。併しだから惡文かと云ふと、決してさうでない。仮にどこか一箇所に讀点を挟み込むとすると、春の野原であるのは、の後かと思ふが、それで多少は讀み易くなつても、文章としては変な小休止が入るわけで、却つて調子が惡くなる。この辺りは文章術のややこしさとでも呼べて、まあこちらの話はいいでせう。

 かういふ書き方で調へられた文章を相手にするのは、併しさう面倒ではなく、頭の中で讀点を打てるくらゐの早さで讀めばよい。そのうち吉田とこちらの呼吸が合ふ。わたしの場合はさうだつたが、合はないひとは合はないままかも知れない。かう書いてこの機微を先ほどラフロイグにたとへたが、寧ろ熟成させた日本酒に近いかも知れないと気がついた。琥珀いろになつて、とろりとしてゐて、一ぺんには干しにくいのに、どうかするといきなり旨くなる。この"どうかすると"の有無が大事と云へば大事で、そこを通りすぎると、文字を食べる樂しみが生れてくる。たとへば

 

 またしても鰤というのがこうして粕汁にして食べるのが一番旨い魚だという気がしてならない。これが刺し身であれば鮪に劣り、照り焼きならば真魚鰹の方が旨いが粕汁だと鰤という魚の荒っぽさも脂っこさも丁度いいだけ生かされて腥いものは酒粕に消され、酒粕は鰤の力を得て食べものになり、食べるのが飲んでいるのに近い結構なものがこうして出來上る。

 

といふ一文が、ぼつてりしたお椀から立ち上る粕汁の湯気や、記されてゐない筈の牛蒡の歯触り、崩れさうな大根の味はひ…ひと口に云へば、幸せな冬の宵の夕飯と殆ど一直線に結びつく。文章のちから、言葉のちからとはかういふ時に用ゐるのが正しく、それは勿論かまはないのだが、ただひとつ、この本を讀むと、たつた今、自分が食べてゐるものが果して本当に食べものなのかどうか、自信が持てなくなるのには困らされる。