閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

016 本の話~何度目かの同道

阿房列車

内田百閒/旺文社文庫

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  大坂…関西方面の云ひ方で、これに近い東京…関東方面の言葉は莫迦だらうか。まあどちらも惡くち。尤も語感には微妙な差異があつて(どちらも罵倒と揶揄が混ざつてゐるが濃淡がちがふ)、特に他の言葉と結びつく時にそれがはつきりする。たとへばこの本の題が『莫迦列車』だつたら手に取るのは躊躇はれるでせう。内田百閒の名前から浮ぶのは過剰な厳密とそれが引つ繰り返る諧謔と大眞面目な顔つきで、莫迦のすすどさからは距離がある。『阿房列車』でよかつた。

 安心して讀み始めるといきなり、用事はないけれど汽車に乗つて大坂に行かうとあるから困らされる。この本は何べんも讀み返してゐて、何べんもこの冒頭で蹴躓く。百閒先生は一等で大坂まで行つて半時間ほどを潰してから夜行寝台で東京に戻らうと考へ、續けて大坂に行くのは用事があつてではないが、東京に帰るのは帰るといふ用事だから、用事にお金を遣ひたくないと思ふ。厳密に云へばその通りかなあと納得出來るんだが、何となく、をかしいぞとも云ひたくなる。大体旅程を考へるのは先生の勝手として、汽車に乗るには切符を買はなくてはならず、切符を買ふにはお金が必要で、お金の工面が出來なければ話は終つて仕舞ふ。先生の借金が第一流なのはつとに有名であらうが事は上手く進むのか知らと心配になる。そこで…と話の紹介は幾らでも出來て(併し筋があるのだらうか)、それなら本を手に取つてもらふ方がいい。むすつとしてゐて、厳密と現實の落差に憮然とする一方で車輪が軌道を叩く音に歓び、鐵道唱歌をそらで唄へるんだと自慢をし、食堂車で一ぱい呑み、旅館で用意させた十分過ぎるくらゐのお燗を仲居さんや狐や狸と平らげた揚げ句、翌朝にうんざりする顔つきが見えてきて、同行のヒマラヤ山系氏の苦心や如何許りかと半ば羨み半同情しつつ笑みが浮ぶ。

  ここでひとつ、この『阿房列車』は決して"旅行記"や"紀行文"に属さないとは、念を押す必要があらうと思ふ。實際、百閒先生が熱中するのは何線の第何列車に乗つて、何驛から何驛まで移動するかで、名所旧跡には寸毫も興味を示さない。これを"旅行記"だの"紀行文"だのと呼ぶと、旅行記乃至紀行文作家(といふひとがゐるのかどうかは知らない)も先生も困惑するだらう。そもそも当り前に考へればこんな内容で文章は成り立たない。偉さうに云ふ積りはないが、わたしには絶対書けない。有り体に云つてこの本は内田百閒といふ触媒があつて(やうやく)(辛うじて)出來上る文章の一種と見立てるのが正しい。冷静になればそもそもこの列車に内容があるのかどうか自体が疑はしく、丸谷才一はこれを

「無内容を内容に引つ繰り返した恐るべき藝」

と舌を巻いてゐる。流石に讀み巧者の批評は精確だなあ。すつかり説得されて仕舞ふ。恐るべき藝なのだから何べん讀んでも面白がれるのは当然なのは解つた。けれどもそれだけか知ら。どうもさうではなささうな気がしなくもなく、いつの間にやら落ち着かないまま、"なんにも用事がないけれど"汽車に乗る先生に同道することになる。それで頁を捲りながらもしかしてこれは藝ではなく、物蔭の狐に騙されてゐるのかも知れない。さう思ひながらわたしも呑む。