閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

017 三十年分の器

 二十台の頃までの食事は量が正義だつた。思ひ返すと高校生くらゐから二十台前半の時期がわたしの大食期で、この辺は讀者諸嬢諸氏も似たやうなものだつたのではないか知ら。たつぷりと旨いがほぼ一直線に結びついてゐた。とんかつや唐揚げやフライド・ポテトを挙げればいいでせう。實に単純であつた。思ひ出すと感心しないねえ。

 三十台に差し掛かると流石に量はこなせなくなつてきたし、多少は食べる経験を重ねたのもあつたからか、お刺身が美味く感じられてきた。尤も歓んで食べたのは"脂ののつた"鰤や鮪の類だつたから、中身は獸肉好みとさして変らない。アサヒのスーパードライやスクリュー・ドライバーやジャック・ダニエルズだけでなく、冷や酒の味を知つたのもこの頃で何度も記憶を飛ばした。それで大失敗りをしなかつたから(忘れたのか知ら)、一ばん呑んだ…呑めた時期であつたと思ふ。

 更に齢を経た四十台になると、脂への執着が薄れてきた。お刺身ならとろの部分より赤身、或は烏賊や酢〆の類が好もしくなつてきた。それより鯵の干物や鰈の煮つけ、焙つた鰯、菜つ葉と小芋の煮ころがし、蛸と胡瓜と若布の酢のもの、豆腐の田樂、おでん、菠薐草や小松菜の胡麻よごし、諸々のお漬物、さういつたものが嬉しくなつてきた。葡萄酒や泡盛や焼酎の味を覚え、チーズやハムや各種のピックルス、たつぷり時間をかけて火を通した南國風の豚肉(不思議なことにしつつこくない)がまつたく旨いことを知つた。

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 ここで念を押すと、とんかつや脂ののつたお刺身をまづく感じるようになつたのではなく、それはそれで旨い。量が正義でなくなつただけで、あれば嬉しいけれど、大皿に山盛りではなくちよつといいところを小鉢に少し盛つてもらへれば満足を感じて、かう書くと我が儘乃至贅沢と呆れられさうな予感がする。予感はするがわたしは我が儘乃至贅沢とは思つてをらず、二十台から四十台までの三十年間で、他人さまにこれは旨いですよと推薦してもいいお店や食べものや酒精を多少は知る程度に経験が重なれば、好ましくまたは望ましく思へるところが広く但し高くなるのは、やむ事を得ないでせう。仮に三十年間、食べものや呑みものの嗜好や求めるところがまつたく変らないとしたら、それはそのひとが呑み喰ひに重きを置いてゐないのだなと断じていいと思ふ。本人がそれでいいなら、わたしが文句を云ふすぢではない。こつそり憐れむくらゐはするかも知れないが、何だか偉さうな云ひ方になつたかな。まあ偉さうなのは惡癖だからご容赦を願ひつつ、わたしは特別にうまい食べものだつたりお店だつたりを知つてゐるわけではない。わたしにとつて旨いと思へる酒精やつまみがあつて、さういふものを出してくれる好もしいお店もあつて(この"自分にとつて"といふのは可也り大切で、食通…今はグルメとか呼ぶのかな。實に軽薄な響きぢやあないですか…の見立てまたは意見が怪しいのは、この視点が致命的に欠けてゐるからだと考へていい)、偶には自分で工夫することもあつて、その方向が十年二十年で変化してきてゐる。呑み喰ひほど経験則が活きる愉しみは他になくて、それを愉しめるひと同士の見立てなら若年より中年老年の意見の方がおほむね信憑性が高い。中年老人が若年の好みを丸ごと否定する場合も考へられるが、呑み喰ひに愉悦を感じるひとは、自分が苦手な食べもののうまさを熱心に語る年少者がゐれば、その旨さを想像出來る舌を持つてゐるから、さういふひとと不運にも出会つて仕舞つたら、気取つてゐるんだなあと心中ひそかに憐れめば済む。…と云つたら皮肉混じりにかく云ふお前さんはどうなんだと訊かれるだらう。これはわたしにとつて胸の張れる都合のいい質問である。何しろ好ききらひの多い少年の頃から、年々歳々食べられるものが増えてゐて、たとへば茄子、たとへば椎茸、遡ればトマトもその中に含まれる。苦手だなあと思ひつつ食べてみたら旨かつた経験は枚挙に暇がなく、知らない食べものの話を樂しさうに嬉しさうに美味しさうにされて、知らないからと手を横に振る積りにはならない。三十年を掛ければ、そのくらゐの器は出來るものなんです。