閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

021 山梨に行くこと~計劃

 毎年秋口には山梨の方向に行く。かういふのは切つ掛け次第であつて大体はその切つ掛けも他愛ないと相場が決つてゐる。ただ一ぺん勢ひがつくと止めるにも切つ掛けが必要なのだが今のところそちらは見当らない。見当らなくても困りはしないので山梨の方向に足を運ばうと決めた。尊敬する内田百閒は何にも用事がないのに東海道線の一等に乗つたけれどもこちらはそこまでの達観に到つてゐない。だから口實はあるに越したことはなく葡萄酒を呑みに行くとする。山梨特に勝沼から甲府にかけては盆地だから晝夜の寒暖の差が烈しい上に雨が少くて葡萄の栽培に向いてゐるのださうだ。さういふ土地で住むのはたいへんさうだが一介の訪問者がそんなことを云つたところで何がどうなるわけでもない。

 山梨に入るには旧國鐵の中央本線を使はなくてはならない。例年は新宿驛發の特別急行列車を利用してゐて気分ぢやあないから変更したいと思つても外に手段がない。高速バスがあるよと云はれても車醉ひするたちだから乗りたくない。今はさほどでもないけれど小學校を卒業するくらゐまではバスに乗ると必ず気分が惡くなつた記憶が残つてゐて乗らずに済むならその方がいい。さてどの列車に乗らうかねと考へるのには理由があつてこの山梨行には同行者がゐる。頴娃君といふ醉つ払ひ仲間。数年前からニューナンブの名前で徒党を組んでゐて外に鰰氏とG君がゐる。ニューナンブの話は色々あるがここでは触れない。名前を出したのだから序でに寫眞とカメラとお酒と蕎麦を大きに好む集団だとは云つておかう。

 併し冷静に考へるとどの列車に乗るかは山梨のどこに行くかで変る。新宿驛から甲府驛は特別急行列車のあずさ號で概ね一時間半。降りるとすれば手前の勝沼ぶどう郷驛か長野方面に進んだ小淵沢驛になる。悩ましいところである。

「さう思はないかね貴君」

「そのとほりだよ貴君」

と云ひあつたのは勿論わたしと頴娃君で勿論わたしと頴娃君がかういふ話をするのだから呑んでゐる。どこだつたかは曖昧だがどうせ新宿近くの居酒屋だつたにちがひない。それでかういふ話題が出るのは麦酒を干して冷や酒に移つてからの筈でそれくらゐになると頴娃君は食べなくなる。こつちは肴を摘ままないと呑めないから困る。食べものに煩いところがあるのに旺盛な食慾を見たことがない。妙な男である。

「行くなら」と繋いで「小淵沢がいいな」

さう云つたのはそこにサントリーの白州蒸留所があるからで以前にも一ぺん行つたことがある。

「すりやあいいかも知れない」

頴娃君が応じたのはその時も同行者だつたからだが普段は蒸留酒を呑まないのに何故さう応じたのだらう。なので

「貴君は蒸留酒を嗜まないだらう」

「だつていい場所だつたぢやあないか」

「成る程」

頴娃君が云ふのは事實で第一に土地の気分が宜しい。そして蒸留所内に満ちるヰスキィの香りが馥郁としてゐて浄土に行けるのならお香ではなくこつちで飾つてもらひたいくらゐだつた。だから賛成した。併しわたしは葡萄酒も呑みたくてそこは譲れないと思つたから

「葡萄酒藏も行かうよ」

「当然だよ貴君。二泊三日だね」

さうなつた。

 そこで諸々を確かめてみることにした。いやその前に前段までは讀点を省いてゐた。意外と書けるものだと思つたがここからは入れる。全文讀点なしの閑文字は別の機会に試してみませう。白州はいいとして例年でいへば甲府にあるサントリー登美の丘ワイナリー勝沼のシャトー・メルシャンに足を運ぶ。前者はヴィンヤード…蒲萄畑からの眺望がまつたく美事でどうかすると冬空に富士山が見える。尤もわたしが一ばん好きなのは桔梗が原のずしりと渋くてうまいメルロー種。ただ壜が八千円とかそんな値段だから試飲でしか呑んだことがない。後者は見學が充實してゐて、殊に試飲が素晴らしい。同じ葡萄を畑ちがひ収穫年ちがひで験さしてくれる。かういふのは較べれば何となく差異が解る。案内を担当する藏…工場の小父さんかお姉さんが、専門の案内がゐる登美の丘のやうに滑かな口調でないのも宜しい。どちらがいいだらう。

 暫く迷つてメルシャンに決めた。登美の丘には食事を取れる場所がない。以前は何とかいふレストランがあつてポーク・ソテー(ブルー・ベリーのソースで中々うまかつた)に葡萄酒のひと壜を奢れもしたのだが気がついたら閉店してゐた。だから何か食べたければバスに乗つて甲府市街に戻らなくてはならない。面倒である。鶏もつ煮や煮貝をつまみに葡萄酒を呑むのも惡い趣味ではないとして、わたしはさういふお店を知らない。それにお店の名前は失念したが飛び込みで入つたそこで食べた馬のもつ煮がめづらしいくらゐ不味かつた記憶も残つてゐて、改めて捜すのも面倒に思へる。勝沼なら平気かと云ふと些か怪しくもあるのだが、メルシャンではちよつとした食事が出來る。試飲とお買物も出來る。安心である。さう思つてゐたら

 わたしはこの一皿をのんびりと楽しみながらサドヤの赤葡萄酒を飲んだ。あれはひよつとすると、文化と進歩と教育に敬意を表して飲んでゐたのかもしれない。

といふ一文にあたつた。丸谷才一の『食通知つたかぶり』にある信濃の洋食屋でビーフ・シチューを味はつたくだり。この本は何べんも讀み返してゐるのだが、今回は何故だかサドヤの文字が引つ掛つた。その引つ掛かりはつきりでなく曖昧で、かういふのは落ち着かないから念の為に調べると甲府驛の近くにある醸造所だと判つた。歩いて寄れる程度の距離で予定に入れていいと思へた。それでどうも勢ひがついたらしく、メルシャンはいいとして外の醸造所もいいんではないかと思ひついた。考へると勝沼とその近辺には大小の葡萄酒藏があつてそこを知らないのは損ではないかと思へてきた。蒼龍に原茂に大和に丸藤…外にも色々ある中でまるき葡萄酒が目に入つた。何うして目に入つたかと云ふと例年の帰りに特急列車内で呑むのがここのカップ入り葡萄酒…確か以前は"ひよいとワイン"で詰り幾度かお世話になつてゐる。ここは敬意を示さねばならないと思へた。頴娃君とまるき葡萄酒に関係はない筈だがこの際それは気にしない。

 概ねの候補は白州の醸造所。勝沼のシャトー・メルシャンとまるき葡萄酒。甲府のサドヤ。それからここまで触れてゐなかつた山梨県立美術館がある。ここはミレーをたくさん所藏する、妙に地味で好きな美術館である。お針子カトリーヌやポーリーヌに会はない手はない。藝術を解つてゐるわけではないけれど好きなものは好きだから行くことにする。さう考へてから果して全部行けるのかと不安になつた。大体中央本線のどの特急列車に乗るのかも未だ決めてゐない。どの特急列車に乗るかはどの順番に足を運ぶかで決まるから先づそこを何とかしなくてはならぬと気がついたので頴娃君と共に幾つかの旅程を検討した。案を出し修正しまた案を出しの繰返しで、それが呑みながらなのは云ふまでもなく、實のところ旅行の愉快は大半がかういふ検討と議論にあるのではないかと思つたのはここだけの話にしておかう。

 初日に小淵沢白州蒸留所。

 翌日は勝沼まるき葡萄酒。

 帰る前にサドヤとミレー。

 といふ大まかな流れが侃々諤々の結果に出來て泊りは甲府市内と決つた。決つた時点で白州蒸留所の見學を予約して自動的に利用する特急列車は新宿驛午前八時のスーパーあずさ五號になつた。降車は小淵沢驛。見學は朝からになるから、どこからどう見ても自堕落な二泊三日になりさうである。わたしは白州とまるきとサドヤを味はへれば満足だけれど、頴娃君は頑固な日本酒主義者だから七賢や横笛が混ざる可能性が高い。こちらもきらひではないから呑むだらう。ただあれこれの種類を呑むのに葡萄酒やヰスキィとお酒ではどうも流れがしつくりこない。好もしいかさうでないかは別に、お酒は最初から最後までお酒で通すのでなければ、初めに精々麦酒くらゐでよく、この辺はも少し調整しておくべきか。さういへば百閒先生は阿房列車を運行するにあたつて同行のヒマラヤ山系氏に

「永年貴君とお酒を飲んで、どの位飲めばどうなるかと云ふ加減はお互によく知つてゐる。相戒めて、旅先でしくじる事のない様にしませう」

「その心掛けでゐて、しかし滅多にない機会だから、出來るだけおいしく、さうしてうんと飲んで來よう」

と訓戒を垂れてゐてまことに重々しい。併し先生と氏は出立前にヰスキィを舐め、夕方から食堂車で呑んで"気持ちにしつくりしない所がある"からとボイに麦酒を持つてこさせ、宿屋でも予めお燗を"十分過ぎる程"用意させたのだから、加減の取り方はどうだつたのか知らと訝しむくらゐは許されるだらう。わたしと頴娃君がどつちの役だかは知らないが、どうせあずさ號の車内から呑みだすのは乗る前から判つてゐる。呑みだしたら醉つ払ふのは予想の範囲内だし、醉つ払つたら何を呑んでも旨いと思ふだらうとも容易く予想出來る。ぶつぶつ云ひながらきつと盃だかグラスだかは止まらないにちがひない。なので出たとこ勝負でもかまはないかと腹を括ることにした。