閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

028 牛丼を食べる

 中途半端な時間にそこそこの空腹を感じて、立ち喰ひ蕎麦では物足りない気分だつた場合、うつかり牛丼を食べて仕舞はないだらうか。四百円くらゐで素早く出てきてまあまづくない。同じ値段の立ち喰ひ蕎麦ならたぬき蕎麦か月見蕎麦辺りかと思はれて、満腹感は圧倒的に牛丼が勝る。あんなのは安い牛肉の切れ端と玉葱があれば簡単に作れるんだから、わざわざお金を払ふのは勿体無いといふ見方もあるだらうが、そんなことを云ひ出すと外食は天麩羅に限られるでせう。この手帖では過度な厳密主義を採つてゐないんである。

 併し牛丼を食べるとして[吉野家]に[松屋]、[すき家]程度しか撰べないのは詰らない。わたしが普段動く範囲には[松屋]しかないから、牛丼を食べる場合は[松屋]に入る。少し道を外せば[吉野家]だつて[すき家]だつて、或は[なか卯]だつてあるのは知つてゐても相手はたかが牛丼である。その為に寄り道するのは面倒である。それなら普段の範囲にある[冨士そば]でかつ丼を喰ふ方がいい。不憫と云へば不憫な話であるね。

 牛丼を食べる場合、わたしが註文するのは必ず並盛で、変り種を撰ぶことは殆どない。気が向けば卵を追加するくらゐ。葱だのチーズだのがあるのは知つてゐるが、旨さうに思へないのだな。老人の硬化した嗜好と呼ばれても反論はしない。我が讀者諸嬢諸氏もいづれさうなるのですよ…といふ脅しはさて措いて、その牛丼を食べ方には案外と差異がありさうに思へる。何をもつて正統的な牛丼の食べ方なのかは議論の余地を残し、この稿ではわたしの食べ方を紹介申し上げる。なに、ややこしい眞似をするわけではないんだが、もしかすると意外と感じる方がをられるやも知れない。ここでは卵を一緒に註文した前提で、話を進めますよ。

 

 最初に卵を溶く。お箸でちやかちやかのちやかくらゐ。醤油をちろりと垂らす。垂らしてから卵は混ぜない。

 續いて肉を丼の周辺に移す。丼中央に出來たごはんを掘る。底には到らない程度に留めたい。

 その穴に溶き卵をゆつくりと流し込む。溢れさうになつたらそこで手を止める。味噌汁があれば残つた分はそつちに入れる。

 流し込めたらごはんで蓋をし、一旦肉を戻す。

 さうしたら今度は肉の一部を少し端に寄せ、さう五分ノ一程度の広さでごはんが見えるようにする。そこに紅生姜をつんもりと盛る。

 寄せた肉には七味唐辛子をぱらぱら振る。香りが立つ程度で十分である。

 

 準備が整つたら、肉、 ごはん、味噌汁、肉肉、ごはん、紅生姜のやうな順で食べる。さうしてゐると、卵がふと顔を見せて、吊るしてゐた背広の内ポケットからすつかり忘れてゐた千円札を見つけた時のやうな、ちよつと得をした気分になる。ここで大事なのは、肉とごはんと紅生姜を出來るだけ混ぜないこと。注意深くしてゐたつて、最後は混ざるんだし、かうすれば肉とごはん(卵ありとなし)と紅生姜の色々な組合せが自然に成り立つて、一ぱいの牛丼を幾つもの味で満喫出來る。

 何とまあたつた四百円ぽつちの牛丼で、みみつちい態度だよそれはと思ふひともゐると思ふが、丼界の三大重鎮である鰻丼、天丼、かつ丼でかういふ愉快を求めるのは中々六づかしく、さう考へると牛丼は寧ろカレーライスに近しいのではないだらうか。まさか我が讀者諸嬢諸氏でカレーライスを食べる際に、ルーとライスと福神漬をいきなり混ぜるなどといふ蛮行を働くひとはゐないでせう。何故混ぜないのかと云へば、カレーライスはその方が旨いからで、その事情は牛丼でも同じである。目の前に出された食べものをより愉快においしく味はひたいと思ふのは人情の当然であつて、四百円の牛丼が相手でも四千円のカツカレーが相手でも、その事情は変らない。その一端が上に述べた手順なのだが、尤もこれが正しいかどうかとなると、何かしら外にわたしの知らない牛丼の樂しみ方があるだらうとも思はれるが、わざわざ訊いてまはるのも照れくさくてこまつてゐる。

 さうだ。牛丼を食べきる直前は中くらゐの肉をひと切れ残しておかう。これでご飯粒や紅生姜の欠片、或は卵の残りを綺麗に纏めて丼を空にするのが矢張り、四百円分の礼儀ではないだらうか。

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