閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

029 習慣

 普段は朝めしをちやんと食べない。珈琲(マグカップに半分くらゐを二回に分けて飲む)にトースト一枚とほんの少しの野菜程度だから、これでは食事と呼べない。血圧が低めの所為なのか無精なのか、寝起きが惡いのは事實で布団から這ひずり出てから一時間ほどが過ぎないと、そのトーストも食べたくならない。好もしい習慣とは云へないのは確かだが、いつ頃からさうなつたのか、さつぱり思ひ出せない。中學生辺りまではちがつてゐた筈として、そこから後が曖昧になつてゐる。はつきりしたからといつて、今の習慣が改まるわけでもないから、深くは気にしないでおかうか。

 併しどこかに出掛けたら…たとへば小旅行の時になると話が変つて朝めしを食べる。流石に起きて直ぐは無理なのだが、半時間もすると朝めしが食べたくなつてくる。旅行先とは云つても大体が安ビジネスホテルで、さういふ場所では大体が朝めしのバイキングといふのをやつてゐる。ごはんかおにぎりにお味噌汁があつて、外に焼き海苔、柴漬け、梅干し、焼き魚、煎り玉子、キヤベツにトマト、切干し大根、鹿尾菜、ソーセイジとまあそんな風なおかずが並べられ、序でに珈琲やジュースだつて飲める。これは昂奮する。食べられるかどうかは別に取敢ずはお皿に盛りたくなつてくる。お行儀が惡いし、残すと恰好がつかないから我慢はするけれど誘惑は強い。この食慾を普段は感じないのは我ながら不思議で、ごく単純に気分が昂揚してゐる所為だらうと思ふ。敬愛する内田百閒は朝めしを食べる習慣を持たなくて、阿房列車で旅館に泊つても頑としてそれを讓らなかつたといふ。較ぶるにどうもわたしは軽薄でいけないね。ただ巷間では朝めしの大切さを訴へる聲があるらしくて、小旅行先での食生活はその点だけ…年に何べんかだが…、健全なのだと居直ることも出來なくはなからう。役目を果してゐるかどうかはまた別の話である。

 ここで思ひ出すのはイアン・フレミングで、ある随筆からの孫引きの記憶になるのだが、ジェイムズ・ボンドの産みの親は小説を書く上で食事が大事だと主張してゐるといふ。かれが云ふには

『我われは夕食より、朝食のメニュを好む』

のださうで、"好む傾向がある(と思はれる)"といつた曖昧ではない。英國的な冗談だつて含まれてゐるか知ら。半分以上は本気だらうな。それで考へると確かに朝食的な献立は旨さうである。英國人や佛國人、伊太利人、獨逸人に露西亞人がどんな朝めしを食べてゐるのかは知らないが、旅館の朝めしと訊いて漠然と浮ぶ焼き魚や海苔、漬け物といつた食べものなら、晩めしに勝るかどうかは別として、好もしいと云つていい。ところでこの"ある随筆"を書いたのは尊敬する丸谷才一で、冗談好きな随筆家は續けて、朝めしのおかずは大体お酒の肴になると云ふ。旨さうなのはそれとして、さうなのか知ら。そこで食べきれるかどうかには目を瞑り、朝めしに登場してもらひたい献立を挙げてゆく。

・ごはん。

・お味噌汁(薄切りの玉葱と溶き卵。または葱と豆腐)

・焼き魚(鯵か鮭。鯖でもよし)

・お漬け物(白菜、胡瓜、たくわん、野沢菜)

・梅干し(果肉が柔らかくて酸つぱいやつ)

・焼き海苔。

・お豆腐(冷や奴か温奴)

・菠薐草を胡麻よごしか白和へで。

・玉子焼き(甘くないやつ)

大根おろし(たつぷり)

・焼き鳥に葱を添へてたれで。

・枝豆の天麩羅。

・金平牛蒡。

・卯の花。

・牛肉を甘辛く炊いたの。

・豚肉の味噌漬け。

 幾らでも續けられさうな気がするが、書き連ねて思ふのは、麦酒の小壜とお酒をあはしたいなあといふことで、洋風な献立ならどうかと考へると

・パン。

・珈琲。

・ソップ。

・バタとママレイド。

・チーズ(三種類は慾しい)

・ハム(厚切りと薄切り)

・ソーセイジ(種類によつて焼きと茹で)

スクランブルドエグズにケチャップ。

・目玉焼き。

・ピックルス(玉葱やピーマン、胡瓜、苦瓜)

ザワークラウト

・たつぷりの野菜(レタス、キヤベツ、トマト、胡瓜、セロリ、アスパラガス、玉葱)

・ポテトサラド(馬鈴薯をやはらかくして、うで玉子が入つてゐるやつ)

・ベーコン(分厚く焼いたのと、薄切りをかりかりにしたの)

・煮込んだ牛肉。

思ふままに書くだけでかうなつて、矢張り麦酒を一ぱいか二杯呑んでから、葡萄酒を半壜と云ひたくなつてくる。成る程フレミングはここまで讀み切つてゐたのか。確かにこんな朝めしなら、晩めしより歓ばしいよ、流石だなあ。尤も準備をして食べ且つ呑むのにたつぷり三時間は慾しい。どう見積つても自分では無理がありすぎて、それなら世界にはさういふ朝めしがあるのだと考へながら珈琲とトーストで十分だといふ結論になつて仕舞ふ。習慣を変へるのは六づかしいものなのだ。