閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

039 ハムカツ!

 文章を書く時の心得として、“!”や“?”は出來るだけ使はないと決めてゐる。濫用は軽薄でいけないと思へるのが理由だが、これは好みの問題でもあるのだが、“!”や“?”を無闇に用ゐるのは爆發を多用する派手なだけの映画のやうに感じられて仕舞ふ。それで面白がれるならかまはないとして、わたしがその手法を使つても、空虚なだけでせう。己ヲ知レバ百戰危フカラズ。尤も例外は何事にもあるもので、どうしても“!”をつけなくては収まりがつかない場合がある。即ちハムカツである。
 伊丹十三の若書きのエセーに、“孫娘に小錢を持たせ、カツパンを買ひに行かせる老人になるだらう”といふ一節があつた。精々四十台の一文だつたと思へるのだが、あの才人は早熟だつたね。別の本に十台の浴衣の少女(夏の夜、花火をしながら)に散し寿司の具を数へさして悦ぶ描冩があつて、初讀の時はなんてエロチックなひとだらうと一驚を喫したのは忘れ難い。今になればさういふ愉しみも成る程ねえと共感するのだが、伊丹は宮本信子を妻にした後、孫娘にカツパンを買ひに行かせるのは實現出來なかつたわけで、かういふのも早熟の悲劇と呼んでいいのだらうか。…伊丹の話ではなかつた。いやわたしはエセーの書き手としてのかれは大好きだし、貧弱な讀書経験の分は割引いてもらひつつ、我が國が得た殆ど唯一のエセーストではないかと思つてもゐるのだが、この稿で書きたいのはハムカツの方だから、伊丹のファンには申し訳なく思ひつつも、今回は方向を変へさしてもらはう。
 併しハムカツが好物だとか、旨いとか、さういふことは何となく口に出しにくい。とんかつの代用品めいた雰囲気があつて、ハム自体の値うちを貶めてゐるといふか、安物を誤魔化してゐるといふか。魚肉ソーセイジに近い感じがされる、と云ふと全國の魚肉ソーセイジ・マニヤ(何人ゐるのか知ら)に叱られさうだが、オーソドックスではない点ではひと括りに出來る。ここで念を押すべきなのは、オーソドックスでないのと旨いかどうかはまつたく別の話であつて、さう思ひ切ればハムカツは旨い。赤ウインナのフライと同じやうに旨いと云へば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも納得頂けると思ふ。ただハムカツの場合、赤ウインナや魚肉ソーセイジと事情が少し異つてゐることを指摘しておく必要もある。詰りハムカツの旨さはハムそれ自体ではないといふ点で、とんかつは豚肉が旨いのは勿論、衣だつて旨いでせう。きつととんかつの旨さやたのしみの二割か三割は衣にあるのだが、ハムカツではそれがほぼ衣だと云つていい。
 [閑文字手帖]が幾ら法螺吹きでも、すりやあ、ないだらう。
 と疑義が呈されさうだが、考へてみ玉へ、仮に上等のハムが手元にある、もしくは届いたとして、わざわざカツに仕立てませうか。分厚く切つてそのまま(或はかるく焼いて)食べる筈だ。わたしならさうする。衣の助けを求めようとは思はない。その必要がないからで、ハムをカツにするとしたら、そのハムが些か残念な場合に限られる。さうなるとハムカツのうまさはハムに依存しないことになる。だとすればハムカツのハムは要らないんではないかと疑問が湧くかも知れないがさうではなく、前述の通りハムカツのうまさや樂しみは衣にあつて、ハムはその衣を旨くする為に欠かせない。揚げたてのすすどい衣に辛子を塗りつけ、ウスター・ソースをとつぷりかけてかぶりついた時、口の中にハムの(微かな)香りが立つのがハムカツの醍醐味であつて、赤ウインナのフライでも魚肉ソーセイジでも、かういふ主格の逆転はあり得ない。ゆゑにハムカツのハムは薄つぺらいくらゐが好もしく、ソースの類は下品に思へる程度まで使つて潤らすのが宜しい。麦酒の大壜を横に置けば、まつたく安直で然もうまい晩酌が完成するのは疑ひの余地がなく、これは確かに“!”をつけるに足る。たつたひとつ、問題が残るのはかういふ目的の為、孫娘をお使ひに走らせるのは躊躇されることだが、わたしには縁がない。心配は無用である。