閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

041 密ヤカナ愉シミ(前)

 秘密なのだから詳しいことは書けない。そんなら書かなくたつていいぢやあないかと云はれさうだけれど、それでも書きたいのは要するに自慢話をしたいからで、どうも人間が賤しくていけない。併しわたしが高潔な人柄なのかと云へば、とてもとてもとなるのは念を押すまでもなく、だつたらささやかな自慢をしたつてかまふまいと気がついた。それで何の自慢かと云へばお酒のことで、ここで云ふお酒は日本酒を指す。と云つたら、どうせ入手が六づかしい銘柄を呑んだとかそんな程度だらうならよくて、あんなのは今さら洒落てゐないよくらゐは云はれかねず、前者に関してはさういふ話とはちよとちがふのだと応じ、後者に対しては…さうだね、洒落てゐるかどうかといつた低い程度で論じる積りはないよと切返しておけばいいでせう。ひとが棲む土地にはその土地で喰へるうまいものがあり、うまいものがあればそれに似合ふ酒精が醸られるもので、獨逸式のソーセイジや馬鈴薯には獨逸式の麦酒や葡萄酒があり、愛蘭土風シチューにはアイリッシュ・ヰスキィがある。同じ伝で焙つた鰯や小芋の煮転がしにはお酒が適ふもので、ちよつと遠出をした時、その土地の肴で地酒を呑むと、こんなに旨いものかと感じるのにはちやんと理由があるのだな。
 堅苦しいのはやめませう、[閑文字手帖]には似合はない。
 お酒を醸すのは随分と六づかしいさうで、天然が相手なのを考へれば寧ろ当然である。お米の出來は勿論、天候や湿度に伴ふ水や麹や醗酵の具合まで、複雑に絡むのを調へるのだから、杜氏といふ人びとはまつたくのところとんでもない仕事…本当かどうかは知らないが、ある時期にかかるとヨーグルトや納豆を食べてはならないのだとか…をしてゐることになる。仕事に美しさがあるとしたら、杜氏のそれは眞つ先に挙げられて然るべきでせうね(眞似をしたいかと訊かれたらそこは口ごもるとしても)だから酒造りの中でかれ或は彼女にちよつとした樂しみがあつたとして、文句を云ふのは筋が通らない。さういふ密やかな樂しみのお裾分けとなる催しが開かれることになつて、ニューナンブの頴娃君が誘つて呉れた。
「多摩方面の某所で、市場に出ないお酒の呑める會があります。貴君如何かね」
「すりやあ行かうともさ」
といふ運びである。多摩方面の某所と書いたのは公表されてゐない催しだから、気を配つた結果で、實際はちやんと酒藏の名前が出てゐた。その藏は以前から何度か(または何度も)訪問してゐて、お酒がうまいのは勿論、併設する食事処で出される料理がうまいのも知つてゐる。だからその辺の心配はしなくても大丈夫。併し會場に行くにはどうするか。どこから電車に乗つて、どこで降りればいいかは熟知してゐるとして、折角多摩の方向に足を運ぶのだからその辺りのやり繰りをしておきたい。なので頴娃君と打合せることにした。ニューナンブは打合せを重視するんである。
 それで某月某日、新宿に行つた。考へてみたら新宿に足を運ぶのはすつかり稀になつてゐて、月に一ぺんかそこらが精々である。十年とか十五年ほど前はもつと頻繁に遊んだ筈で、何べんも記憶を飛ばした。大体は家のベッドに辿り着いてゐたが(併し覚えのない痣がある)、気がついたら午前七時の立川驛のプラットホームに立つてゐたこともあつて、よくもまあ事故にあはなかつたものだ。我が若い讀者諸嬢諸氏は、かういふ大人になつてはならないよ。新宿から距離をおいて中野に移つたのは、さういふ苦い経験の賜物ではないかとも思ふが、この辺りの事情は自分でも判然としない。何しろ中野で呑んでも記憶を飛ばすことはあつたからなあ。といふことを考へながら、某居酒屋で呑みだした。酒藏が経営してゐて、廉な上に肴も中々美味い。砂肝に牡蠣フライに魚の竜田揚げ。取分け牡蠣の天麩羅には感心させられた。
「これはもしかすると」
「フライより旨いんではないか」
さう褒めたのはお酒にあはせたからで、麦酒だつたらフライの方が有利だつたかも知れない。我われは褒め且つ呑みながら、明治維新を成り立たせた戰争…鳥羽伏見から江戸の無血開城に到るあの戰で、徳川方が敗けたのは何故だらうといふ話題に熱中した。兵隊の数や武器の質で云へば徳川勢は明らかに優位だつた。対する倒幕側…所謂“薩長土”の手にあつたのは、御門といふカード一枚きりだつた。正面からぶつかれば幕府側の勝ちもあつたらうに、をかしい。近畿で敗れてからだつて、幕府が持つてゐた軍艦で東海道を下る倒幕軍を艦砲射撃する戰略があつたさうで、後日それを知つた乾退助は顔色を変へたといふから、幕府の逆転劇はあり得るイフ(但しさうなつたら、血塗れの内戰は避けられなかつたらう)の筈である。さう論じあつて、一応の結論は時勢は勿論だが、徳川慶喜といふトップが朱子學の徒…何しろ水戸はあの奇妙な思想の総本山である…で、後世に朝敵視されるのを甚だしく怖れた(大坂から素早く逃げてからは勝海舟にほぼ丸投げをした)のが大きな要因だつたのではないかと纏まつた。外様潘の連中が気勢を上げたのもかれらだつて矢張り朱子學の徒だつたから、錦旗を手にして
「正義は我にあり」
と勘違ひ出來たからではないか。尤もその旗は慶喜が差し出した一面があるから、皮肉と云へば皮肉な情景と見立てられる。
 何か忘れてはゐないか、ところで。と気がついたのは論じ合ひにひと段落がつき、お酒のお代りを干した辺りで
「仕舞つた貴君、打合せはどうなつてゐる」
「いかん、うつかり失念するところだつたよ」
互ひに苦笑を浮べ、更にお代り…勿論お酒である…を頼んでから、やうやく本論に入つた。多摩方面だから場所はある程度限られて、立川から昭和記念公園福生の田村酒造が挙げられる。挙げられはするがどちらも足を運んだ経緯があつて、何べん行つてもかまはないにしても、少しくらゐ気分を変へてみたくもなる。そこで長らく降りてゐない青梅がいいんではないかとなつた。どうも我われは青梅を乗継ぎまたは通過驛と認識してゐて、正直なところ、一日を過ごすのは躊躇はれるけれど、半日足らずの時間ならその後の移動も含めて具合が宜しい。そこでちよつと確かめると、地名は平将門…伝奇ものが好きなひとは『帝都物語』を連想するかも知れない…が金剛寺で願を掛けた梅の實が熟さず落ちもしなかつた伝説に由來するといふ。不勉強なわたしは知らなかつた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は如何でせう。因みに云ふ。将門は十世紀前半の人物。東國で叛乱を起こして死んだ。今は神さまとして祀られてゐて、この辺りはまことに中世の日本らしい。少し説明をするとこれは、この世につよい気持ち…主に怨念を残して死んだひとを神さまと祀りあげ、祟らせないやうにする形態で、御霊信仰と呼ばれる。祟らせないのが大事で、この時代の神さまは無闇に災厄をもたらす存在だつた。非業の死を遂げたひとは怨みが深い筈だから(菅原道眞の祟りつぷりを思ひ出せば想像出來る)、神さまとして高い位を与へ、ご機嫌を取らうとするんですね。古代のローマでは皇帝が死後神さま…たれだつたか、臨終に際して“控へよ、余はこれより神になる”と云つたさうだ。ローマ人の冗談は複雑だなあ…になり、キリスト教でも列聖といふ制度があるのがここで連想されるが、どちらも“えらいひと”だつたから神さまになり、聖人に列されることを思ふと、平安時代の叛乱者とは方向がまるでちがふのが判る。その将門が青梅に関つてゐるとは知らなかつた。ここはひとつ、驛からの道が判れば足を運んでみようか。