閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

054 安直豆腐

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 花が散つて風に緑が含まれる頃になると豆腐を食べたくなつてくる。と書くのは正確さに欠ける。豆腐は年中いつ食べても旨いもの。眞夏でも玄冬でも不意打ち気味に恋しくなる。中でも安直なのが冷奴なのは強調するまでもないでせう。八釜しいことを云はなければ、マーケットで五十円くらゐの豆腐と醤油で一応は成り立つのだから、これは大したものだよ。わたしのやうな無精ものに、こんな有り難い食べものも見当らない。尤もかう云ふと我が厳密なる讀者諸嬢諸氏から

「また駄法螺が始つた」

「まつたく舌の出來が惡いひとはこまる」

と叱られるに決つてゐる。またその叱責がおほむね正しいのは、まつたく具合が惡い。食べたことはないが、ごく上等の豆腐だと醤油すら要らないといふ話は聞いた記憶がある。いや聞いたのでなく、村上春樹だつたかな。かれの本は手元にないから調べられない。世の中にはさういふ豆腐があるかあつたかは認めるとして、それはわたしの野蛮な舌には縁がないんですよと居直つておかう。と、ここで気がついたのだけれど、豆腐はこの手帖の[013 白くてふはふはして曖昧な]で触れてゐる。なので大掴みな豆腐史や豆腐全般についてはそつちを眺めて頂くことにして、この稿では安直な豆腐に話を絞る。一ばん安直なのは、マーケットで半丁くらゐのを三パックに纏めたやつだらうね。精々が百円とかそんな値段。まづくないが、まあ豆腐(らしい食べもの)だなと思へる程度か知ら。これだと醤油を垂らすだけでは、ちつとさみしい。なので安直な工夫を考へませう。

 最初に浮ぶのは、青葱と生姜と削り節。基本中の基本ですな。わたしの嗜好だと削り節は不要なのだが、煩いことは云ひますまい。ここで醤油を味つけぽん酢に、青葱を茗荷または大蒜にすれば変化が生じる。生姜と茗荷を併用しつつ、天かすをどつさり乗せれば、ちよつとした肴になる。たぬき奴と呼ぶらしいね。天かすの油くささが鼻につくといふひとは、大根おろしを更に加へればいい。少しの手間が厭でなければ、豆腐と味つけぽん酢を別々にさつと温め、紅葉おろしと白葱をあしらふ手もある。温奴といふ名前で出してくれるお店もある筈で、木匙で掬ひながら食べるとこれは中々お酒に適ひますよ。トマトやセロリ、胡瓜にうがいた鶏のささみをざくざく切り混ぜ、豆腐を崩し入れ、温泉卵を落してから、酸味のあるドレッシングを掛けまはしたら、恰好のよいおかずになりさうだが、どうも安直からは離れすぎてゐさうな感じがする。勿論ここで

『こんな工夫が必要なのは結局、元の豆腐がまづいからだよ。最初からいい豆腐を買ひ玉へ』

といふ批判は成り立つし、わたしは素直なたちだから尤もだなあとも思ふ。その一方でマーケットの特賣を利用…この場合は活用か…活用して、ごくささやかに、いや有り体に安直と云ひませう、安直に樂しむのだつて、豆腐の姿ではないか知ら。半値の白葱と味つけぽん酢をうち掛けた廉の豆腐を匙で掬ひながら、野蛮人はさう考へもするのだ。