閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

057 こびりつくカメラ

 妙な具合に記憶に残るカメラといふのがある。わたしだけの話ではなく、数奇者なら大体はそんなものではなからうか。その1台乃至それ以上の機種は、数奇者それぞれに異なつてゐるのが当り前で、わたしの場合、それはキヤノンのEOS RTになる。銀塩EOSの古い機種。

 銀塩EOSは650から始まる最初の世代。EOS-1を頂点にする次の世代、EOS5に端を發する最後の世代に分けることが出來る。特筆したいのは、それぞれの世代で異なる顔がはつきりしてゐた点で、いちいち具体的に挙げるのは控へるが、同世代のミノルタαやペンタックスZではそれが希薄だつた記憶がある。当時のキヤノンは開發が優れてゐたのだらう。RTはEOS史で云へば最初の世代に属する、EOS650の派生機種と云つていい。ただこの分れ具合が若干ややこしくて、650から直接分岐した630の、更に特殊な機種なんである。では何が特殊だつたかと云ふと、ファインダー像の消失がないのがそれで、ざつと説明すると一眼レフのファインダー像は

①レンズを通つた光を

②ミラーで反射させて

③プリズムで正像にし

結像させたもので、フヰルムが感光する間はミラーが跳ねあがる。その間はプリズムからファインダーへの光路が閉ぢられることになつて、ファインダーから像が消失する。だから厳密に云ふと一眼レフは

『冩す瞬間を見ることが出來ない』

さういふ構造なんです。そんなの当然だよと思ふひとは旧式の数奇者で、デジタルカメラ(やスマートフォンの機能)がカメラだと考へるひとは、理解に苦しむにちがひない。

 さういふ構造的な問題に手をつけたのがEOS RTと云ひたいところだが、さうではない。但しその栄誉は間違ひなくキヤノンのもので、ぺリックスといふ機種をここで挙げなくちやあならない。これもごく簡単に云ふと、半透明のミラーを固定して、ファインダーと露光計に光を分割する造りだつた。光量が半分くらゐになるし、その分の補正も必要になるのだが、ファインダー像消失に対する最初の解は確かにぺリックスだつた。技術的にはその直系の子孫(NewF-1の特殊な機種で採用されたらしいが、詳しいことは判らない)がEOS RTと見立てていい。基本的な考へにちがひはないが、1/3ほどの光量がファインダーに送られる分を自動露光が補正を掛ける。自動化のあり方としてまことに正しい。その自動化の部分はEOS630の応用であつて、その意味で云へばRTは新旧キヤノンの技術が混淆した…リリース時のタイムラグをNewF-1にあはせることが出來るのも、間接的な證拠になるだらうか…カメラとも呼べる。

 デッドストックを買つた。55,000円。値段がはつきり記憶にあるのは、暫く後に友人が矢張りデッドストックを50,000円で入手したからで、あの時は悔しかつた。

 持つて最初の印象は、重い、だつた。当時のわたしはEOS1000から同100に乗り替へてゐた頃で、(そのEOS100は手元にあるのだが、詳しくは別の機会に話しませう)RTの重さは勿論その100と比較しての感覚。上から見ると何だか無愛想だし、正面からの姿は右下が切り落されたやうなのが不安定に感じられた。黒いボディの右肩に小さく、金いろでRTとあつて、これがわたしの目には實に恰好よろしく映つた。それで無愛想も不安定も気にならなくなつたから、要するにスタイリングは納得したのだな。

 さう。肝腎の半透明ミラーを使つた挙動はどうだつたかと云へば、可成り不思議だつたのを忘れない。ミラーが上下する時の動作音や振動がないのは構造から当然と判つてゐた。判つてはゐたけれど、瞬かないファインダー像と併せておそろしく静かで、その分直後の巻き上げ音が大きく響く風に感じられた。EOS100が当時の機種としては動作音が静かなのを賣りにして…惹句が“サイレントEOS”だつた…ゐて、それに馴染んでゐた所為もあつただらうが、同じEOSでも随分ちがふのだなあと思へた。

 使ひ勝手を今さらどうかうは、黎明期のEOSに不公平なので云はない。あれも出來ますこれも出來ます式が無理だつた時代の機種だから、“シンプルで使ひ易い”とこぢつけられなくもないか。但しレンズをつけた…實際に使ふ場合の重さの均衡はそれほど考慮されなかつたらしい。考へられた設計なら、持つた時の重さと、構へた際の安定は別ものに感じられるのだが(これはニコンのF4で實感させられた)、RTはその辺りがもうひとつで、650系統のEOSに共通した難点と思へる。

 まあ併し、今から慾しいかと訊かれたら、正直なところ、首を縦には振りにくい。特別な思ひ入れを持つまでには到らなかつたのが大きな理由。仮に今から銀塩カメラを手にするなら、[052 ニコンのカメラを1台撰ぶ]で触れた通り、ニコンのNew FM-2やライカといつた機械式を撰びたいのがもうひとつの理由。カメラ史…キヤノン史…EOS史を俯瞰したいのなら話は異なるだらうが、それは眞面目な研究者にお任せしたい。何かしらの縁で手元に届くことがあれば、勿論それは拒みはしない。さうさう。この半透明ミラーはEOS-1N RSで後に採用された。強力なモーター・ドライヴと組合せて、超高速カメラの基となつたのだが、以降は姿を消してゐる。色々と面倒(設計?製造の手間や費用?それとも整備上の問題?)だつたのか知らと想像出來て、さうかうしたあれこれが、わたしの記憶にこびりつく理由なのだらう。