閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

062 漬ける

 お漬物が好物なのです。

 ごはんとお味噌汁にお漬物があれば、食事は完結するのではないかと半ば本気で云ひたくなるくらゐ。

 と云へば我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも成る程ねえと納得してもらへるのではないか知ら。

 

 色々とありますな、お漬物は。

 塩漬け。

 糠漬け。

 粕漬け。

 酢漬け。

 醤油漬け。

 味噌漬け。

 油や砂糖漬けまで含めると、範囲が広くなりすぎる気もするけれど、そこはまあ、曖昧にしておきませうか。

 

 何を漬けるかもまた色々とある。

 最初に思ひ浮ぶのが大根や白菜、胡瓜の類なのは当然として、鯛や鰆といつた魚もさうだし、魚卵や牛肉もさうだし、甚だしい例になると、石川県には河豚の卵巣を一年以上塩藏してから、半年以上糠漬けにする方法もあるといふ。それで河豚の毒は大体抜けるのだが、解毒といふのか、析出と呼ぶのか、そのメカニズムははつきりしないさうで、何の偶然がかういふ方法に繋つたのか。想像が先づ六づかしい。加賀人と能登人には是非、その歴史を調べてもらひたいね。尤も想像が六づかしいと云つても、見当すらつかないわけではない。お漬物の基本は保存食だもの。粗忽者がうつかり漬け込み過ぎたのを、勿体無いからと棄てずに使つた結果とか、その程度の他愛ない切つ掛けに決つてゐる。

 

 お漬物全般がさうでせうね、きつと。

 

 わざわざ想像するまでなく我われのご先祖は、我われが思ふ以上に食べものには敏感だつた。

 何しろ生き延びる大前提だつたから当然のとことして、だとすると、その慾求は何より蓄への方を向いただらうと考へられる。

 

 うまいけれど、足がはやい。

 まづいけれど、長保ちする。

 

 この不毛な撰択肢で、きつとかれら(いや勿論彼女もゐた筈だが)は後者を採つた…採らざるを得なかつただらうと思はれる。ただここで我われは檀一雄が教へてくれた

 『ひとが棲む場所には必ず、その土地に似合つたうまい食べものがある』

 『さういふ喰ひ意地がひとを生き延びさせ、また發展さしてきた』

といふ意味の言葉を頭に浮べる必要がある。あの小説家兼放浪者兼喰ひしん坊は、文字通り世界中で食べ且つ呑み、うまいうまいと云ひ續けたひとだから説得力がちがふ。世の中の数少ない眞實のひとつに挙げられるくらゐではありませんか。

 

 お漬物がその例外になるだらうか?

 

 と大上段な反語を使ふまでもなく、我われのご先祖が最初に得た調理法が“焼く”と“烹る”だつたのは疑ひの余地がないとして、その次に發見したのはもしかすると“漬ける”だつたと想像したくなる。漬けて保存したからには、それでまづくなるのは我慢ならなかつたらうなとも想像出來て、たとへば“燻りがつこ”の大根を数日、燻してから糠に漬けるといふ凝つた作り方を思ひ出せばいい。勿論これは必要に迫られた事情(大根を天日に干しにくい気候)があつての手法ではあるけれど、長期の保存に耐へて、また旨いお漬物に仕立てる工夫の發露と見立てる方がきつと、實態に即してゐる。

 

 ところで。

 かういふ食べものは世界中にあるのか知ら。

 ザワークラウトやピックルスをわたしは大きに好むけれど、獨逸人や英國人が、キヤベツや胡瓜を酢以外に漬け込むだらうか。寧ろサーディンやオリーヴのオイル漬けが主な気がする。アラビアやペルシア、印度、東アジア一帯、或は南米やアフリカではどうだらう。

 どうも浮んでこないね。

 すりやあ、あなたが無知なだけでせうさ。と笑はれる可能性はあるとして、お漬物が育つには幾つかの條件が重なる必要がありさうに思ふ。醗酵食自体は珍奇ではない(たとへばチーズ)から、發展のちがひはさうなるだけの事情があつたと考へるのが自然でせう。具体的には何か知ら。漬け込まれる野菜、肉、魚介などの問題か、何に漬け込むかといふ嗜好のちがひか、漬け込まなくてはならない地理的な、または気候上の要因か。

 

 どうも材料に原因を求めるのは誤り…少なくとも正鵠を射てはゐないと思ふ。

 地形の條件は有り得るな。さうだらうかと疑念を抱くひとは京都を思ひ出せばいい。あすこは野菜のお漬物は勿論、ぐじの味噌漬け、鯖の塩漬けでも知られるが、要するにあの町やその近隣では鮮度の高い野菜や魚介を入手するのが困難だつたから、さういふ方法を採らざるを得なかつた。

 気候の事情は東北以北を考へれば済む。長い冬を乗り切る為には、保存の方法を工夫せざるを得ないのは当然の話。残念なことにそちらへ直接、足を運んだ経験はないのだが、先に挙げた燻りがつこは秋田だし、その外の味噌漬けや粕漬けだつて、北國のそれらが無いと淋しくて仕方無くなるでせう。

 ここでわたしとしては、我が國で油漬けが生れなかつたことが残念と云ひたくなる。たとへばしらす櫻海老を油と香草で漬けたら、葡萄酒に適ふと思ふんだが、どうでせうね。遠州の漁師に奮起を期待したい。併し冷静になれば、京都でも東北でもそれが成り立たなかつたのは、単に油の収穫が六づかしかつたからに過ぎない。仮にオリーヴ(地中海辺りが原産らしい)のやうな油を搾れる植物に恵まれてゐたら、我が國でも橄欖漬け…橄欖はオリーヴの意。我ながら博識だなあ…が出來てゐただらうとは、容易な想像でせう。旨いものは“土地に似合”つて生れるのだね、矢張り。

 

 最後にわたしの好むお漬物を幾つか、挙げておきませう。順不同敬称略。異論反論は様々あるだらうが、そこはひとつ、あれとして頂きたい。

 

・白菜の浅漬け。

・胡瓜の浅漬け。

野沢菜漬け。

・梅干し(果肉が軟らかいやつ)

ザワークラウト

・苦瓜のピックルス。

・鮪の赤身の醤油漬け。

白身魚の味噌漬け。

 

さうさう。自分でも不思議なのだが、粕漬けはどうも好きになれない。もしかすると酒粕が理由なのではないかとも思ふのだが、確証が持てずにゐる。酒藏で出來た計りの酒粕ならきつと旨い粕漬けになるだらう。尤も酒藏がある土地で、粕漬けに似合ひの食べものがあるのかどうか。工夫の余地はたつぷりあるとは思はれる。