閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

070 本の話~バイブル

文章読本

丸谷才一/中公文庫

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  bibleを単純に翻訳すると“本”の意味になるさうで、頭のbを大文字のB…即ちBibleにすると、キリスト教の『聖書』に意味が転ずる。頭文字が大文字か小文字か、定冠詞がつくかどうかで意味するところが異なるのは、どうも我われには理解しにくいが、欧米の言語はさういふものと諦めるしかない。かう文句を云つてからつけ加へると、カタカナ言葉のバイブルは更に広く、貴女やわたしにとつての“欠かせない本”といふ意味合ひを持つ。欧米人には失礼だつたか。讀書は一種の惡癖なのは改めるまでもないとして、その惡癖に浸つたひとには、一冊か二冊、さういふ本があるにちがひなく、わたしの場合はそれが『文章読本』に当る。

 同じ題名の本は異なる筆者の手になつてゐる。一ばん有名なのは谷崎潤一郎でせうね。中公文庫に収められてゐた時に一度讀んで、最近になつて新潮文庫で『陰翳礼讚』と合本された(實に贅沢な組合せではありませんか)のを讀み直した。三島由紀夫も書いた筈だし、丸谷の後には井上ひさしも書いてゐる。似た趣向まで含めると“文章読本”は幾らでも挙げられさうで、併し讀むに足る内容がどれだけあるかどうか。大谷崎や井上は兎も角、怪しいものだと疑念を呈せざるを得ない。だつて“文章読本”なのだもの、その本の文章が優れてゐなければ、何の為の“文章読本”といふ題なのかと云ひたくなつてくるでせう。さう考へると、この題で書かうとするのは、可也りの度胸を要することにちがひないのがよく判る。

 併し“文章読本”なら、文章の書き方指南なのだから、何人もが何冊も書く必要はないだらう。さう考へるのはあながち誤りとは云ひにくい。その一方で言葉も文章も、時間と共に緩やかな変化をするものだから、我われが生きる…詰り文章を書く時代に相応しい“文章読本”があつて然るべきだと考へることも出來て、わたしはこちらに与する。そして変化をするとしても、言葉や文章はその変化そのものを承けて用ゐられる(もつと簡単に“伝統に基づくのだ”と云つてもいい)のだから、我われの時代の“文章読本”は、過去を十二分に尊重した内容でなくてはならない。さう考へるとこの丸谷版『文章読本』の偉容と異様が浮んでくる。どこがどう偉容で異様なのかはこれから書くが、わたしは書評家ではない。個人の感想の範疇を出た評論にはならないので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には予めご理解をお願ひしますよ。

 

 この本の第三章は“ちよつと気取つて書け”と題されてゐる。前段(第一章と第二章)では、総論と基本中の基本、即ちよい文章を書く為の大前提は優れた文章を讀むことだといふ指摘が具体的な引用と共に記してあつて、これだけでもすこぶる示唆に富んだ内容となつてゐる。ことに第一章は谷崎版読本を

「巨匠の藝談、初心者に与へる適切な忠告がたつぷりと語られる合間に、ふと、現役の藝術家の危険な願望、無謀な野心が打明けられ(中略)うつかりしてゐたのでは何となく読みすごし、さらには、さすがに大したものだなどと感心さへするやう」

と批評しつつ、文豪がかういふ本を書いた…書かざるを得なかつた事情を我われに説明してゐて、これ自体が一篇の評論になつてもゐる。

 さういふ前段を経て、第三章から文章を書く上での才覚や心得、秘訣が惜しみなく語られるのだが、その事實上の冒頭の題で丸谷は、あつさりと才覚乃至心得乃至秘訣を明かしてゐるから、驚いて仕舞ふ。極論すれば第三章以降で書かれるのは“気取り方”の工夫で、それらはきはめて具体的に…もつと云へば病的と云ひたくなる執拗さで示されてゐる。具体的と云ふのは引用の多さで、谷崎潤一郎は勿論、志賀直哉石川淳佐藤春夫永井荷風折口信夫森鴎外田村隆一吉行淳之介夏目漱石柳宗悦と文字通りの百花繚乱に加へて、世阿弥荻生徂徠鴨長明、『古事記』に『伊勢物語』に『玉勝間』と一部を抜き出しただけでも、溜め息すら出ない豪奢さではないか。

 引用と丸谷の藝が鮮やかに絡んでゐるのは第九章“文体とレトリック”だらうか。井上版讀本で絶讚されたのがこの箇所。大岡昇平の『野火』とシェイクスピアだけでレトリックの技法と實際を解き明かすのだから、あのレトリカルな戯作者が昂奮しなかつた筈はないよ。併しわたしが感嘆したのは第四章“達意といふこと”で、その冒頭は

「しかし文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言はんとする内容をはつきりと読者に伝へて誤解の余地がないこと。あるいは極めてすくないことが、文章には要求される。何よりもさきに要求される」

異論を許さない口調で断定する。そして

「どんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしてゐる文章は名文ではない。駄文である。いや、文章としての最低の資格が怪しいのだから、駄文ですらないと言ふのが正しいだらう」

と痛烈に念を押す。一体にこの本の筆者は評論でも随筆でも、烈しい言葉遣ひを避ける…レトリカルな皮肉に転化することが多いから、何故だらうと思つてゐると、“伝達の機能”の例として大日本帝國憲法と日本國憲法を比較してくる。驚かされましたね、これには。非常に微妙な材料ではないか。さう感じつつ頁を進めると、矢張り大日本帝國憲法への批判が厳しい。但しその峻烈さは“勿体ぶつてゐて曖昧模糊”な文章に対してである。その一方で日本國憲法を“運動神経のない優等生が厚着したやうなモタモタ口調”に頭を抱へながらも、“下手であつてもとにかく”文章なのだと云ふ。これもまた痛烈で、政治的な色あひを打消すのは流石に無理があるとしても、確かに憲法といふ文章の持つ特異な役割を思へば無理はないし、達意といふ文章の“最も基本的な機能”について考へる時、憲法の條文ほど適切な題材も見当らないだらう。美事な視点と云はなくてはなるまい。いやこれは第四章を讀んで気がついた…實はおれも前からさう思つてゐたんだといふ気分にさせられるのは、丸谷の文章を讀んで屡々経験する…ことなのだけれども。

 

 併しここまでは偉容の部分である。ここからは異様の箇所についてで、谷崎版にも井上版にもない特色でもあるのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には前段に挙げた引用された作家群に念の為、目を通してもらひたい。宜しいですか、進めますよ。この豪華絢爛な文章群を丸谷はただの例示で終らせない。言葉遣ひ、文字の撰び方、比喩の用ゐ方、構成の作り方…詰り文章の書き方を丁寧に讀み取り、時に平然と感嘆の聲を洩らす。たとへば内田百閒の『蘭陵王入陣曲』(百閒らしい愉快な戯文)を引いた後に筆者は云ふ。

「小児語の特徴であるオノマトーピアがしきりに用ゐられるのは必然性があるのだが、それだけではなく、オノマトーピアの幼稚さと充分に釣合ひが取れるだけ、張合へるだけ、それ以外の語彙を取合せてゐるところがすごい」

我われにオノマトーピアの濫用を戒めつつ、凄いすごいと驚き且つ歓んでゐる。或は石川淳の『小林如泥』の剛直な一文を引いて

「ただ感嘆するしかない達人の藝」

と讚辞を呈してから、大急ぎで“のんびりと鑑賞に耽つてゐる余裕はない”とつけ加へる。かういふ例はこの本に幾らでもあつて、貴女もわたしも、“文章読本”といふ何やらもの堅いお勉強の本を手にしてゐるとは思へなくなる。寧ろここにゐるのは無類の讀書好き、讀み巧者で、優れた本…文章の紹介に熱中出來る人物で、その紹介がきはめて緻密且つ論理的だつた時に、かういふ一冊が成り立つのではないかと云ひたくなつてくる。

 極端な話をすれば、丸谷版『文章読本』は丸谷の文章を抜きに引用された文章だけを讀んでも、満足に値するにちがひなく、わたしの知る限り、これほど豊かな引用を散りばめた“文章読本”は外にない。あの膨大な讀書量を誇つた井上版読本にもかういふ花やかさは見られなくて(ただ井上版の引用にはキャバレーの求人や新聞記事、建賣の広告など、お祭りのやうな賑やかさがある。あの獨創的な作家が、引用に当つて、丸谷版を意識しなかつただらうか)、この豪華は丸谷版の獨壇場と云つていい。きつと丸谷が期待したのは第二章で指摘した“名文を讀め”の實践だつた筈だが、その意図はおそらく本人の期待以上に効果的だつた。引用と共に書かれた文章は、作文の技術に関はる話なのに、一種の書評ともなつてゐて、さうならざるを得ない面は確かにあるのだが、それ自体を樂しむといふ讀み方が成り立つて仕舞ふ。そこに気がつけたのは耻づかしながら、最近の話。その瞬間から丸谷才一の『文章読本』は、わたしにとつて二重の意味を持つことになつた。即ち

 

 文章を書かうとする時に讀む本

 文章を讀まうとする時に開く本

 

で、前者は本來の目的だから兎も角、後者は莫迦げてゐると云はれるか知ら。併し編輯者がこの本を一種の讀書案内の役割を果すと考へただらうとは容易に想像される。主な引用元の一覧を巻末に用意したのが何よりの證拠で、それは正しくまた丸谷の“名文を讀みなさい”といふ主張にも合致する賢明な判断でもあつた。

 ここで念を押す必要があるのは、“文章読本”には色々な在り方が許される。小説前提は勿論、論文に特化したり、或は恋文の為の“文章読本”だつてあり得るわけだが、たつたひとつ、すべての“文章読本”に欠かせない要件があつて、云ふまでもなく、その“文章読本”自体の文章が優れてゐなくてはならい。仮にまつたく引用を用ゐなくても、ロジカルにレトリカルに、適切な言葉と文字で書かれた“文章を書くことについての本”(併し成り立つのか知ら)ならば、“文章読本”の冠は許されるだらう。そこで丸谷才一の『文章読本』を考へるに、溢れるやうな引用は確かにある。但し受けて立つ文章も第一流…ロジカルでレトリカル、且つ随筆に較べると少ないがユモアにも富んでゐて、もし理窟を解するのが六づかしくても、じつくり讀めば丸谷の文章自体が優れたお手本になのだと気がつくにちがひない。時間を掛けて繰返し讀むに値する本は世の中にさう多くはないけれど、この本はその名誉に相応しい。