閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

074 色に還らうか

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 この手帖は基本的に、スマートフォンで画像を撮り、文章を書いてゐる。パーソナル・コンピュータを使はないのは、ちまちま書く分にはこの方が樂だからで、キーボードを叩くのと、フリックでは、書き上がりが随分ちがふのだらうなと思はれる。そんな莫迦なと笑ふひとを、文章を書かうとした経験がないと断じても、誤りにはならないだらう。仮にノートブックを使ふとして、鉛筆とシャープペンシルと筆で、書く内容には微妙かあからさまかは兎も角、差異が生じるのは寧ろ当然の結果である。スマートフォンとパーソナル・コンピュータでちがひが出ても、それは不思議とするに足りない。


 さう云ふなら、スマートフォンのカメラ機能とデジタル・カメラではもつと露骨にちがふだらうと云はれさうで、その指摘はまつたく正しい。スマートフォンのカメラ機能は、光学的なズームを除くと、事實上、コンパクト・デジタル・カメラに等しい程度まで高機能化されたけれど、撮る行為に集中したい場合は矢張り、カメラには及ばない。勿論、撮つた画像を素早く見せびらかしたいとなれば、撮つて送信までの操作が1台で完結するスマートフォンが優位になる。どちらを重く見るかは我われの撰択だから、ここで結論は出さないが、安直好みのわたしとしては、スマートフォンの易きに流れて仕舞ふ。


 スマートフォンで撮る時はモノクロームの正方形が原則で、それが樂だからといふ事情は以前に[060 不精者の正方形]で触れたとほり。正確にはカラーの4対3で撮つてから、正方形にトリミングをして、更にモノクロームへ変換する。すりやあ面倒でせうと云はれるかも知れないが、スマートフォンの操作で完結するのだから、面倒でも何でもない。本音の部分では、かういつた設定を記憶してもらひたいところではあるが、その辺を詰めると、デジタル・カメラを使ふのが判断として正しくなる。通信を軸にした汎用性の高い機械に、さういふ特化を求めるのは間違ひであらう。ところで我ながら、モノクロームで正方形に何故、膠泥するのか。


 GRデジタル2といふカメラがあつた。死語になりつつある“高級コンデジ”に分類された機種。小さく軽く、冩りもよく、何より設定を細々しく弄れるのが宜しかつた。このカメラに用意された28ミリレンズには、21ミリへのコンバーターが用意されてゐた。勢ひに任せて買つたのはいいが、広い画角を持て余した時に、正方形で撮る方法を知つた。また同じ場所を撮るにしても、色があるのとモノクロームでは、えらく雰囲気が異なるのもこのカメラに教はつた。今にして思ふと、この正方形とモノクロームの組合せがわたしの嗜好に適つたのが、切つ掛けだつたらしい。好む、撮る、馴染むの云はばワン・セット。すりやあスマートフォンでも膠泥する破目になりますな。


 併しそれでかまはないのか、といふ疑問が残らないと云へば嘘で、鮮やかな色を目にすると嬉しくなるし、その鮮やかを画像にも残したくなり、また公にもしたくなつてくる。


 スマートフォンで撮るとなると、どうしたつて多くなるのは呑み喰ひのそれである。ここで吉田健一の『食物の美』といふ短い随筆が思ひ出される。食べものの見た目と味(念を押すまでもなく、旨いかどうか)について吉田らしいややこしさで語られてゐて、この場合のややこしさは寧ろ、味はひを複雑玄妙にするのだから歓迎しなくてはならない。それで、とじつくりこの面白い随筆を讀み進めたいところだが、脱線も甚だしくなるので我慢する。残念だなあ。併し

『食べものといふのは概して余り映えない色をしてゐるものなのである』

といふ一節は引用する値うちがありさうに思ふ。たとへばわたしが大きに好む臓物の煮込みや種々の串焼きはごく地味な暗褐色だし、厚揚げや蒲鉾やフライや唐揚げにも花やかさは欠ける。それらが目の前に出されると確かに旨さうに見え、實際に旨くもあるのだけれど、昂奮して撮つた翌日に画像を見ると、店晒しになつたカーディガンのやうに感じられることが少なからずある。慌てて云ふと、それは食べものの責任でなく、食べものは本來さういふものなのだといふ理解が欠け落ちてゐたわたしが惡い。

 とは云ふものの、例外はあるもので、トマトや卵の黄身、うがいたアスパラガス、ごく新鮮な烏賊のお刺身を挙げれば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも容易に想像頂けるだらう。食べものそれ自体だけでなく、陶器や漆器や硝子、壜や壺のラベルも呑み喰ひの場では目につくもので、かういふのは意匠に色も含まれる。さうなると見せびらかしで正方形は兎も角、モノクロームに膠泥するのは、誤りとは云へないとしても、積極的な理由にもなりにくい。そこはケース・バイ・ケースといふやつで、使ひ分ければいいのだよと至極尤もで適切な助言が聞こえてくる。まつたくそのとほりと頷かざるを得ない。それで最近色を考へながら撮らうとしてゐるのだが、實に六づかしい。如何に色を意識してゐなかつたか、しなくなつてゐたかがよく解る。出來るだけ単純な方向から、色に還ればいい…詰りモノクロームではなくモノトーン的な方向…と思つてはゐるが、さてそれが辿り着くのはどんな画像なのか、さつぱり見当もつかないでゐる。