閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

084 カップ麺を論ず

 ラーメン。

 饂飩。

 蕎麦。

 焼そば。

 春雨。

 

 世話になつてゐるのは、まあこんなところだと思ふ。好物かと訊かれたら、正直なところ、首を傾げるけれど、便利かと訊かれたら、それは認めるのに吝かではない。獨居の半老人としては、乾麺と併せて、台所の隅に常駐させておきたい。非常食…荒天で買ひものが無理な日などに、カップ麺があるとひとまづ安心する。尤も、体が嬉しがる食べものではないのは確實で、普段はそれほどでなくても、微熱を感じたりしてゐる時だと、覿面にまづくなる。経験的に明らかだから、さういふ場合は素麺を柔らかく煮るのだが、そつちの話は、別の機会に譲らう。

 ところでカップ麺にわたしが何を求めるかと云ふと、廉価と安直、そこそこの味の三点に集約出來る。ラーメンでよく、有名店とのコラボレーションとか、誰々プロデュースとか、目にするけれど、ああいふのには全然興味を持てない。さう云へば、籔や砂場、更科、美々卯なんかは、カップ麺に見向きもしないね、老舗の矜恃なのか知ら。仮にさういふのがあつても、看板に傷がつくだけだらうけれど。…と書くと、ラーメン屋の看板には傷がつかないのかと訊かれさうで、さう訊かれたら、つかないでせうと応じたい。麺類の格で云へば、ラーメンはまあその程度が妥当で、それがカップ麺に反映されても不思議ではありませんよ。

 話を広げるのは控へませうね。わたしの惡癖である。それでカップ麺に戻ると、あれは小腹が空いた時の虫抑へくらゐの扱ひである。だから面倒はしたくない。本格を称して、粉末スープに液体スープにスパイスにオイルにと、小袋が詰め込まれたのを見ると、それだけでうんざりする。その小袋に“ふたの上で温めてください”とか“お召し上がりの直前にお入れください”などと書かれてゐたら、大きなお世話だよと投げつけたくもなつてくる。メーカーで開發に携るひとには気の毒と思はなくもないが、世の中にはかういふ意見の持ち主だつて、ゐるんです。念の為に云ふと、お湯を捨てなくてはならないカップ焼そばは例外で、これはまあ当然だが、お湯を捨てずにすむカップ焼そばが出來ないものかと時々思ふ。

 要は自分が無精なのをくだくだ書いてゐて、もしかするとそのくらゐ、我慢しなさいよと窘めるひとが出てきても、不思議ではない。併しカップ麺がそもそも無精なのだから、無精を責めるのは筋がちがふ。その筋から考へると、お湯を注ぐだけで完結するカップヌードルは、大した發明と呼べないだらうか。これはどうやら安藤百福の功績と断じていいらしい。日清の[安藤百福クロニクル]には

 

『1966年、「チキンラーメン」を世界に広めようと考えた安藤が、欧米へ視察旅行に出かけた時のこと。現地で訪れたスーパーの担当者たちは、「チキンラーメン」を小さく割って紙コップに入れ、お湯を注ぎフォークで食べはじめました。これを見た安藤は、アメリカにはどんぶりも箸もない、つまりインスタントラーメンを世界食にするためのカギは食習慣の違いにある、と気づいたのです。そしてこの経験をヒントに、麺をカップに入れてフォークで食べる新製品の開発に取りかかりました』

 

とある。詰りカップヌードル…すべてのカップ麺の始祖はチキンラーメン、と云ふよりも、チキンラーメンを世界中で賣りたいと考へた安藤の、(当時を思へば)奇妙な熱情だつた。さういふ熱情から完成に到つた商品が、最初から過もなく不足もなく出來あがつたとして、不思議でも何でもない。

 その点から見るとすべてのカップ麺の歴史は、カップヌードルから如何に離れるか、如何に新味を加へるかであつて、味つけも分量も具も麺の種類も、その延長線上にある。明星やエースコックやサンヨーだけでなく、日清もまた、カップヌードルからの影響乃至呪縛を受けてゐるのだが、それはいい。ただ我われは、そのカップヌードルが今も賣られ、賣れ續けてゐる点に注目したい。これは一眼レフの原型であるニコンFや、距離計機の完成形であるライカM3が今も賣られ、賣れ續けてゐるやうなもので、判りにくければ、カップヌードル發賣と同年(昭和46年である)に始まつた『仮面ライダー』が、今も本郷猛と一文字隼人で續いてゐるやうだと云ひ直してもいいが、この際譬喩は用ゐないのが、一ばん正しいかも知れない。

 併し、と矢張り譬喩を多少は援用しよう。技術的な進歩や嗜好の変化は措くとして、長寿の製品は“かういふ製品がいいなあ”のイメージが、非常に精確なのではないか。オリンパス米谷美久が設計したペンは、“6,000円で賣る”條件を、きはめて明瞭で正しい“かういふ製品”のイメージで、形になつた。どこがどう正しいイメージだつたのかは、有名に過ぎる話だし、本筋から離れもするから、ここでは云はない。ただ安藤百福の“こんな即席麺(この時点では未だカップ麺には到つてゐない)がいいなあ”といふイメージは、米谷の頭に浮んだのと骨組みは、同じ筈であらう。何の話をしたかつたのか知ら…さう、カップ麺ですよ、カップ麺。

 素早く手軽、安直廉価がカップ麺の本道で(出だしは、他の麺類に較べて遥かに割高だつたが)、その点から考へるに、本格とか生麺風味とかこだはりの出汁とか、さういふ條件は不要…といふより寧ろ邪魔と見做してもいい。かう云ふと、メーカーの眞面目な開發担当は、それだと本物に近づけないと困惑顔になるかも知れない。知れないが、果してカップ麺を、饂飩や蕎麦に近づける必要があるのか知ら。どれだけ“近づけ”たとしても、それは結局、贋もの…近似値に過ぎないし、それならお店で食べる方が余程うまい。だつたらその方向は諦め、お湯を注げば完成といふ限定の中で、お店では食べられない味の一手に工夫を凝らす方が(困難の度合ひは高くなるだらうが)、カップ麺のあり方としては健全ではないかと思ふ。