閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

131 留意点

 小學生の土曜日は午前中に授業があつて、帰宅してから吉本新喜劇だつたかルパン三世の再放送だつたかを観ながらお午ごはんを食べた。平日の給食は食パンかコッペパンだつたから、お晝にお米を食べるのは週末に限られてゐて、かう云ふと時代だなあと思ふでせう。わたしも書きながら、時代だなあと思つてゐる。大体は饂飩やおにぎりで、稀に外食だつた記憶がある。外の家がどうだつたかは知らないし、興味も湧かなかつた。まだ世界が自宅と教室と、家の近所の遊び場だけだつたから仕方がない。

 さてその週末のお午の偶と稀の間を埋めたのが炒飯で、家では焼きめしと呼んでゐた。入るのは玉子に葱に、後はハムの切れ端程度で、味つけは塩胡椒。祖父母と同居してゐた為、ごはんの炊き方はやはらかめだつたから、炒めるといふより、火を通すくらゐではなかつたかと思ふ。塩胡椒も薄めだつた筈で、れんげからウスターソースを垂らしつつ食べた。焼きめしにウスターソースねえと呆れられる可能性は認めるが、それが少年のわたしにとつては焼きめしだつたし、あの焼きめしは確かに旨かつた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも少年少女の頃の、さういふ味がきつとあるにちがひない。

 ここで思ひ出すと不思議なのは、稀の外食で炒飯を食べることもあつて、それは焼きめしと呼ばなかつたし、ウスターソースを垂らしもしなかつた。してみると少年丸太は家の焼きめしと、外の炒飯を、異なる食べものと認識してゐた可能性がある。炒飯は焼きめしと違つて、ぱらぱらしてゐたからか、味つけが濃かつたからか、刻んだ煮豚が入つてゐたからか、ソップが添へられてゐたからか、単に家で食べるのが焼きめしで、外では炒飯だつたのか、今となつては曖昧である。寫眞の一枚も残つてゐれば、確かめられるのに、残念でならない。いや待てよ。十年余り前、その店はあつて

「ここで四十年、商ひをしてゐます」

といふ話をその時に聞いたから、幸運に恵まれれば、その機会を得ることが出來るかも知れない。

 ところで焼きめしを作るのはそれほど六づかしくはない…理窟の上では。

 ごはんを強い火で一ぺんに炒めあげる。煎じ詰るとこれだけなのだから、たれだつて出來る。ここで云ふ“たれだつて”はわたしも含んでゐて、何べんか、或は何べんも作つた。併し成功したためしがなくて、この場合の成功は週末の焼きめしだつたり、稀な外食の炒飯だつたりするのだが、正確に一度もうまくいつたことがない。温かいごはんで、冷めしで、ごはんを炒めたところに玉子を入れて、玉子を先に炒めて、予め溶き卵を混ぜて、どうやつても失敗する。食べられないほど不味くはならない(自炊をして食べられないくらゐの失敗をしなかつたわけではない)としても、これを食べたかつたと思へる仕上げにはならず、どんな事情が隠されてゐるのか。

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 勿論そこに記憶の補正があるのは認めませう。ただ少年少女の頃の味に、さういふ補正が掛からないのは寧ろ不自然でもある。なので何年か、何十年か振りに同じものを食べても、大体はこんな感じだつたけれど、何かしらちがふと感じるは当然で、その点から云へば焼きめしの再現が六づかしいのも筋が通る。通りはするが、それでも記憶と實際の乖離が大きすぎる。矢張り不思議であつて、ひよつとしてこれは、自分で作つてゐるからだらうか。思ひ返すと確かに焼きめし乃至炒飯はわたしにとつて

「たれかが用意してくれる」

うまい食べものであつた。外で食べる炒飯をまづいと思つた記憶がないのは、その間接的な證拠になるかも知れない。だから今は自分で焼きめしを作るのは諦めて、時々炒飯を食べるとしてゐる。

 併しその時々のさらに時々、焼きめしの習慣が顔を出しさうになるのはこまる。詰りれんげ経由でちよいと垂らしたくなる。流石にウスターソースは我慢出來るが、酢と醤油、(あれば)すりおろしの大蒜をれんげでブレンドして、端つこに少しづつ垂らすのが“辛抱堪らん”ことがある。お行儀の惡いのは承知しつつ、安ラーメン屋の炒飯でやらかすと、妙に旨い場合があるのでなほ困る。ここで我われはふたつ、注意を忘れてはならない。第一に垂らす時は必ず、れんげを経由させること。もつと大事なのは、その必要がない炒飯では、さういふ眞似をしないこと。さう考へると、格段の留意が要らない焼きめしは、中々大した食べものではないだらうかと云ひたくなつてくる。