閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

135 串の気分

 以前にも触れた記憶があるが、気にせずに書くと、串ものをわたしは大きに好む。

 焼き鳥に焼きとん。

 串揚げ。

 豆腐や蒟蒻の田樂。

 或はここにおでんの飯蛸や牛すぢを入れていいかも知れず、かういふのを大きに好むのは旨いからで、序でに廉だからでもあるが、まあ後者はこの際、いいでせう。

 いきなり(併し例の如く)話が逸れるけれど、おでんは旨いですな。飯蛸や牛すぢを除くと、厚揚げに大根、糸蒟蒻(くるりと結んだやつ)、茹で玉子、お餅が入つた巾着。いやはや、かういふのを順繰りにつつきながら、お酒をやつつけるのは嬉しいもので、これはお燗が似合ふ。かういふ場合はお皿に盛られて出されると、すうつと冷めるのが困りものだから、食べたい種を順に註文したい。

 そのおでんで思ひ出した。『座頭市物語』だつたと記憶してゐるが、勝新太郎…座頭ノ市が、博奕場近くの呑み屋で

「その旨さうに煮えてゐるのを」

とおでんを食べる場面があつた。山ほど辛子を塗りつけて

「辛子を喰ふ積りでなくちやあ」

さう見栄を張りながらかぶりついたのはいいが、それで失策るので、勝はかういふ、恰好惡いのをそのまま恰好よく思はせる演技が、まつたく巧妙なひとだつた…と話が明後日の方向に進みさうだが、實はちやんと算段があつて、その場面で座頭ノ市が貪つたおでんは串に刺さつてゐて、初見の時は知らず、赤塚不二夫が連想された。

 ところで“座頭市”の映画はおほむね江戸時代の末期…天保年間くらゐが話の舞台らしい。おでんの少なくとも名前が、田樂に由來してゐるとは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもよくご存知と思ふが、蒟蒻だの何だのを焚き込むのはどうやら関東の發祥らしい。関西、近畿圏の古いひとがそれを“関東煮(かンとだきと發音してもらひたい)”と呼ぶのが間接的な證で、ではその“かンとだき”は天保にあつたのか。あつたとして、座頭ノ市が鼻をひくつかせたやうに、串に刺したのをくつくつと煮込んでゐたのか、どうもはつきりしない。

 そこで考へてみるに、おでんなんて、きつと廉価な食べものだつた筈で、種にいちいち値段をつけ、食べ終りに全部で幾らと云ふのは面倒だつたらう。串に二つ三つの種を刺したのを、一本幾らで賣る方が樂だつたにちがひない。わたしがおでん屋の親仁ならきつとさうする。わたしが客でも一本幾らは判り易くていい。どちらにとつても安直で済むのは廉な呑み屋の基本で、鬼の平藏が舌鼓を打つた野兎の団子汁や、部下の兎忠が好んだ一本饂飩は確かに旨さうだが、串のおでんのやうや気らくさからはちよつと遠い。この辺りは座頭と火附盗賊改メ方のちがひだらうか。

 思ひ出し序でに云へば出始めの天麩羅も串揚げ方式だつた…と書いて、おでんも天麩羅も、串が抜けてから、上等の(値段の意味ではないですよ)料理になつたのではないかと気がついた。アイスクリームだつてさうかも知れない。少年の頃、駄菓子屋で買つた三十円の王将アイスは、持ち手になる板が刺つてゐて、あれが串の変形だとすると、カップに入つたレディボーデンは明らかに格上であつた。もうひとつ、フランクフルトも夜店の棒が刺つてゐるのより、お皿に盛られてゐる方が格上なのは云ふまでもない。旨いまづいの比較ではなく、夏祭りの夜、罐麦酒のお供に齧る棒刺しのフランクフルトはまつたくうまい。ドイツの麦酒でやつつけるフランクフルトと山盛りのザワークラウトがうまいのと、その旨いのが同じかどうかは知らないが、そこでいや矢張りドイツ式麦酒に焼き物ソーセイジとザワークラウトに限ると公言して叱られないのは、大泥棒のホッツェンプロッツくらゐであらう。

 カスパールとゼッペルがどう反論するかはさて措いて、また旨いまづいも別の話として、兎も角も“串に刺つた食べもの”が何となく、格が低く思へるのは事實と見て、誤りではなからうと思ふ。では何故、串ものが格下なのだらうといふ疑問が湧いてきて、併しさうなると更に、何の種を串に刺して、どんな風に焼き、或は揚げ、煮るのか、またそれを幾らでお客に喰はせるのかと併せて面倒な課題と思へ、矛盾してゐないかと疑問が續く。その疑問を突き刺すのが、手間の面倒や實際の味はひを横に置いた、“串の安直な気分”ではなからうか。その辺の何かを刺して、焼くか煮るか揚げるかすれば、それなりに食べられるだらう。といふ気分が背景に感ぜられる。本当にさうなのかではなく、さういふ気分が云はば問題なので、併しそれは問題なのか知ら。

 鶏肉。豚肉。牛肉。羊肉。

 ハラミ。タン。レヴァ。カシラ。

 鱚。鮭。帆立。貝柱。

 蓮根。大根。長葱。

 蒟蒻。豆腐。厚揚げ。

 “刺す”といふ一点で、何でもかでも、食べるのが串である。この場合の串は調理の道具であり、食器でもあつて、外を必要としない。以前に触れたことの繰り返しになるが、我われはここで、串が獸骨の暗喩だと思ひ出す必要がある。それを未開野蛮の象徴と呼ぶのは誤りではなく、その未開野蛮が姿を転じ、現代の我われには安直な気分と感じられるのではなからうか。だとすればそれは困つた話とは呼べなくなる。そこまで遡らなくたつて、おでんの串を頬張りながら、座頭市…まあ蛮性ではある…を気取るのも惡くない趣味であらう。尤もそれだと、辛子を思ひ切り塗るのが本道になるから、わたしには眞似が六づかしい。