閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

136 独りで

 偶に独りで飲みに行く。遠くまで足を運ぶことはしない。旧國鐵で云ふと中央線の大久保から中野の三驛が範囲なので随分と狭い。別に狭くて困りはせず、日常的に動くのがこれくらゐだし、この辺りには呑み屋が多い。恵まれてゐる土地なのだとここでは云つておく。

 独りで飲んで樂しいのかと訊かれさうだから先に云ふと、樂しいのかどうかはよく判らない。それでも月に一ぺんとか二へんは飲みたくなるのだから、詰らなくはないのだらう。詰らなくて飲んで旨い筈はなく、それは酒精にもつまみにも財布にも肝臓にも宜しくない。かう云ふと財布や肝臓を思ふならそもそも飲みに行くのを止めればいいといふ指摘するひとがゐさうだが、それは呑み助の心理を判つてゐない見立てで、そんな気遣ひが出來るなら指摘をされる前に飲んでゐない筈だ。併し独りで飲みに行くと云つて、實際に独りで飲んでゐるものなのか。呑み屋なのだからそこには大将や女将さんと呼ばれるひとがゐて、口あけのでもない限り、外のお客だつてゐるもので、連れがゐない意味で独りなのはその通りではあつても、それは孤独と一致しない。品書きに知らない銘柄の酒精だつたりつまみがあれば一体これは何ですと訊くし、どうかすると隣のお客と世間噺が始まることもないわけでなく、果してこれが独りで飲んでゐると呼べるのか知ら。どちらでもかまはない。それで樂しいかどうか、本当に独りで飲んでゐるのかどうかは別として、何をどの順番で飲み、何をどの順番で食べるのか、すべてがこちらの勝手だから、その点の具合はいい。もつといいのはぼんやりしながら、その合ひ間にお酒でも焼酎でも含み、厚揚げのひと切れをつまんでも、文句を云はれる心配がないことで、更にいいのは無理をして喋らなくても勝手に時間が過ぎることか。大将乃至女将さんはさういふ呼吸を心得てゐるものだし、隣のお客が面倒なら、曖昧に笑つておけば済む。念を押すと喋るのをきらつてゐるのでなく、気の合ふ友人と盃をかはしながら賑やかに喋りまた飲むのは確かに愉快である。愉快ではあるが、常にさういふ気分とは限らないのも事實であつて、だつたら家で飲めばいいと考へることも出來る。併しそれだと來月の支払ひや仕事の気掛り、さういつた事どもが背中に貼り付いた感じになる。どうもそれは遠慮したい。それに家で飲むのは中身の判つてゐるお弁当箱のやうなもので、何を飲めるか食べられるかといふ期待を丸で持てない。勿論それを安心と呼ぶことも出來るけれど、安心はまづくない保證であつても旨いとは別だらうと疑問は残る。それにある種の食べものは自分でどうかうするより、その道のプロフェッショナルに任せる方が旨い。幾つかを挙げるとカツレツやフライ、ことに天麩羅はさうで、別に呑み屋でなくても、町中のカウンターと卓がひとつふたつくらゐで営業してゐる洋食屋で、フライ定食を食べながら飲む麦酒はうまい。それでなければ蕎麦屋で天種を肴に飲むお酒もいいもので、マーケットの鯵フライや天麩羅の盛合せだとかうはゆかない。店屋物だつたらどうだらう。確かめるのも方法だが、その手間を掛けるなら、洋食屋または蕎麦屋に足を運ぶ方が気がるでまた手早くもある。その気がると手早さは洋食屋や蕎麦屋に限つたことではなく、併し、どれだけ気心の知れた相手であつても、たれかが一緒だと雲散する性質を持つてもゐて、それだから独りで飲む時間はあつていい。仮にそれが損得勘定で云へば損だとしたら、その為に出掛けるのは誤つた解といふことになつて、誤つた解ならば呑み屋は成り立たなくなる。といふことは勘定の方法が間違つてゐる。安心した。なのでこれから一ぱい、引つ掛けに出る。