閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

137 さういふ運び

 年に何べんかビジネスホテルに泊る。ビジネス詰り仕事でなく、遊びの寝床で使ふので、眞面目なビジネスマンから、冷やかな視線を送られるかも知れない。ここでは一応、済まないねえと云つておく。

 そのビジネスホテルの料金には大体、“朝食バイキング”が含まれてゐて、おにぎりにお味噌汁、鹿尾菜、煎り玉子、ソーセイジ、野菜サラド、鰤か鯖と思しき焼き魚、焼き海苔、梅干し、柴漬け、珈琲やオレンジジュースといつたあれこれを好きに撰べる。さういふのが目の前にあると昂奮するもので、うつかりお皿に盛つて仕舞ふ。但しビジネスホテルの“朝食バイキング”には飲めないといふ問題がある。罐麦酒の一本くらゐ、持ち込んだつてよささうなものだが、開けた途端、お客様それはご遠慮願ひますと云はれるのも困るから、試したことはない。試したとしても落ち着かないだらうな。

 併し考へると普段の朝めしは珈琲とトーストくらゐである。豪勢な“朝食バイキング”に昂奮してもさう沢山、食べられるものではない。それに外のお客がゐると、多少の気詰りを感じもする。定食屋だつたり居酒屋だつたりなら、気にはならなくても、朝は寝起きが惡い所為もあつて、どうもさうはゆかない。混雑する時間帯だと待つてゐるひとが気になつてもくる。ならば“朝食バイキング”を利用しなくてもいいんではないかと思へてきて、ことにニューナンブで“スーパーどんたく”と称する一泊遊びの場合はこちらが主になりつつある。別に面倒をする必要はなくて、前夜に罐麦酒や食べものを多めに…ちらし寿司や少しのお漬物、即席のお味噌汁。後はチーズでもあればそれで困らない。ハンバーグでも焼き魚でもかまはないけれど、経験的に云ふと、フライや天麩羅の類はひと晩過ぎると食べられたものでなくなるから、避ける方が無難であらう。勿論朝から買ひに出掛ける余力があるなら、止めはしない。

 しだらない恰好のまま、罐麦酒を飲む。ちらし寿司をつまむ。余りがあれば前夜のお酒も飲む。外に何の心配も無いのなら、そのまま飲み續けて眠りなほしたいくらゐで、そこで思ふのは、日が暮れてから盃に相対するより、こちらの方が遥かに好もしいのではないか。朝から飲み始めて、気がつけば陽は中天を過ぎ、縁先が夕陽に彩られ、苔が月照に輝いたかと思つてゐたら朝になつてゐて、気忙しいなあと呟きながら飲み續けるのが呑み助の理想だ、と云つたのは吉田健一だつた筈で、縁先や苔は兎も角、ビジネスホテルの朝にはさういふ期待に近い瞬間がある。かういふ朝めしなら、幾らわたしだつて歓迎したくなつて、そんならメニュはどうするのか。生牡蠣や羊の腎臓の串焼き、ベーコンにスクランブルド・エグズにビーンズ…は勘弁してもらはう。ひとつひとつは旨さうだし、きつと旨いとも思ふのだが、こつち一色になると戸惑つて仕舞ふ。

 梅干しから始めたい。出來れば果肉がやはらかくて、酸つぱいのがいい。外のひとはどうだか判らないが、ひと粒の梅干しは胃袋を巧妙に刺戟してくれる。それをしやぶつてからお味噌汁を一ぱい。豆腐と若布、葱。これなら寝起きの惡いわたしも相応に起き出せるにちがひない。さう思つてゐると、如何です麦酒はと聲が聞こえてきて、すりやあ慾しい。

「何を飲みませうや」

朝だから濃厚なのは避けたい。ここはキリンの一番搾りかサッポロの赤ラベルをもらへれば有り難いと云つたら、壜入りの赤ラベルが出てきた。ホテルだか旅館だか知らないが、さういふサーヴィスがあるのだらう。さうしたら上手い具合に焦がした鯵の開きに薑を添へたお皿があらはれた。隣には牛肉の欠片を甘辛く炊いた小鉢がある。赤ラベルを一ぱい干してから、これはいいやとお箸をのばすと、鉢盛りのお漬物が重々しく置かれ

「ごはんは、こちらですよ」

さう促された。促された方を見ると、お櫃に入つたごはんがあつて、幸せな気持ちになつた。麦酒をちよいと後にまはして、ごはんをひと口、お漬物で食べた。實に旨い。

 鯵が骨になり、赤ラベルも飲み干した辺りで

「やあ貴君。そろそろお酒に移らうではないか」

と頴娃君の聲がしたから驚いた。“スーパーどんたく”の翌朝だつたか知ら。なので

「貴君。ゐたのかね」

「折角飲んでゐるのだから、気にしなくたつて、かまはないでせう、この際」

さうすることにしたのは、厚揚げ、小芋、青菜と蒟蒻、骨つきの鶏肉を綺麗に焚いた煮物が出てきたからで、外には豆腐と温泉卵。これだと確かにお酒かと思へてくる。そこで[初孫]を奢ることにした。山形の銘柄。尊敬する丸谷才一先生が褒めてをられたので飲んでみたら、讚辞にたがはぬ旨さだつたから、機会は逃さないことにしてある。ただ頴娃君好みの味はひではない筈で、ちらりと目をやると、[松美酉]の銘が見えた。

「美味いものだね」

「お互ひさまだよ」

いつの間にやら、塩焼きの鴨が何切れか、お皿に並んでゐる。遠慮する必要はなささうだし、後のことは後で考へればいいと決めてつまむ。気がつけば柳葉魚に目刺し、菠薐草のおひたし、蛸と若布の酢のものにピックルスが並べられきて、成る程、さういふ運びなのか。何が成る程で、どうなればさういふ運びなのかは判らないけれど、かう呟いておけば一応の納得にはなりさうである

 それでピックルスをつまんでみたら、苦瓜だつたので嬉しくなつた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はご存知か。どうかすると胡瓜のピックルスよりこちらの方が旨い。胃袋の調子が本來なら、これくらゐで十分満足の筈だが、どんなわけだか、まだ食べられさうな感じがする。これも“さういふ運び”に含まれてゐるのだらうか。[菊之露]が似合ひさうにも思へたが、どんなわけかスモークト・サモンと分厚いベーコンのステイク、ロースト・ビーフが少しづつ取り分けられたのが出てきて、葡萄酒が美味からうと思つた。頴娃君を見ると、悠然と[英君]を愉しんでゐて、併しサモンやベーコンやビーフにはねえ、と知らないうちに手にあつた[ティオ・ペペ]を飲みつつ考へた。どうも“さういふ運び”には色々あるものらしい。

「さ。では、これを」

と差し出されたのが[サドヤ]の赤で、ヴィンテージは判らないが、あすこなら信用出來るから、飲むことにした。もつたりと飲んでから、醉つてゐるかも知れないと思つた。飲んでゐるのだから、醉ふのは当然なのだらうが、醉つてゐる気分ではなく、ここでまた吉田健一を思ひ出して、飲んでゐると頭のどこかが妙に冴える時があるとか何とかそんなことを書いてゐた。あの境地に達せたのだらうか。知らないうちに片づいた卓子には、チーズと削り節と醤油、酒盗が用意されてゐる。葡萄酒にもお酒にも似合ふ組合せなので感心し、感心してからはてたれが用意して呉れたんだらうと気になつたが、折角のチーズをはふり出すわけにはゆかないから、兎に角そちらを優先した。

「それでかまはないかな。貴君」

「それでかまはないさ。貴君」

綺麗に平らげて、冷たい水を一ぱい干した。何だか知らないが、いい具合の朝めしであつて、仮にこのまま自分の命が別の場所に飛ばされても、漠然と満足を感じるだらうし、かういふ朝ならそれは惡くないなと思つた。それで障子を開けると、陽は中天を過ぎ、山の向ふの空遠くへ沈まうとしてゐる。これで晩酌にありつけないまま、魂を持つていかれては困ると考へ直した。ここまで“さういふ運び”に含まれてゐるとすれば、大したものだよと云ひさうになつた時、如何です麦酒はと聲が聞こえてきた。