閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

139 ぼんやりと思ひ出す

 袋入りの即席麺といふのがある。五つがひと纏めになつて三百円とかそんな値段だから、単純計算でひとつ六十円くらゐ。カップ入りだと特賣でひとつ百円前後なのを思ふと、割安だらうか。尤もカップ麺の場合、一応具が入つて、洗ひものをしなくてもかまはない利点が含まれてゐるから、単純な比較は六づかしいかも知れない。まあ有り体に云つて、毎日食べるものではないことを思ふと、六づかしい以前に大して意味がないといふ結論に達しても、さうだらうな、で終るけれども。

 その一方で偶に食べると妙に旨く感じるのも袋入り即席麺…ここからは袋麺と呼ぶ…で、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはよくご存知のとほり、日清のチキンラーメンが元祖である。チキンラーメンを發明した安藤百福は死去するまでの毎日、晝食にこれを食べ、健康の秘訣を訊かれると、毎日のチキンラーメンと応じたさうだから、自信と思ひ入れかあつたのだらう。ここで気になるのは安藤が食べたのは、丼に入れてお湯を注ぎ三分待つ方式だつたのか、鍋で一分煮る方式だつたのか。卵や葱は乗せたのかといふところだが、かういふのは想像に任せておく方がよささうにも思ふ。

 この發明家兼事業家には併し申し訳ないが、わたしが最初に馴染んだ袋麺は、サッポロ一番の醤油ラーメンだつた。家にあつたから以上の理由はない。日清のソース焼そばはあつたから、安藤をきらつてゐたのではなささうである。それ以前に幼少期のわたしにとつて、ラーメンは外食とほぼ同義で、サッポロ一番に馴染んだといふよりは、それ以外の袋麺を食べる機会がなかつたとする方が正しい。母親は料理を苦手としてゐるが、それでも不肖の倅に袋麺を投げ与へはしなかつた。いやここから母親が台所に居るのがどれだけ大事かなどと論じる積りはない。さういふ話は辰巳浜子さんの『料理歳時記』に任せればまちがひはないし、袋麺は中學生くらゐになつたわたしに、中々大事なおやつでもあつた。何しろお湯を沸かして茹でればいい。それで空腹を満たせるのだから、實に有り難いもので、否定的に話を進めるのは恩義に悖る。

 一体にわたしは保守的…保守的が変なら少年期の食べものから離れにくい傾向がある。たとへば醤油はヒゲタではなくキッコーマン、ポテトチップスはコイケヤでなくカルビー、アイスクリームはレディボーデンのバニラで麦酒は断然キリンなのは、さういふ環境だつたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、思ひあたるところがあるのではないか。前段で書いた通り、袋麺の場合はそれがサッポロ一番だつたのだが、今思ふと惡くない撰択の気がする。第一にそのままでまあ、まづくはない。これといつた特長がないのもこの際は具合がよく、葱の切れ端や卵、冷蔵庫にあつた野菜炒めの残り、お玉一杯分のカレー、その他諸々、大体のところは放り込んでもかまはない。かまはないといふのは、まづくなりにくいの意味で、調理を知らない學生に便利だつたのは勿論、調理を知らないまま独り暮しを始めた時にもまつたく重宝した。

 ここで云ふ“調理を知らない”は、正味の掛け値無しであつた。庖丁の使ひ方も判らなかつたから、切るだけで済む野菜炒め(味つけや炒め方を変へるのが、自炊のささやかな経験の始りだつた)が主なおかずになつて、それはそのまま袋麺に転用出來る。實に便利なもので、但し飽きる。サッポロ一番の醤油だけでなく味噌、塩、チキンラーメンは勿論、他の袋麺も食べたが、飽きる。当り前の話だが、どれも袋麺の味だからで、何を追加したところでそこが変るわけではない。さういふことに気づきつつ、多少は自炊にも馴れ、外食も無理ではなくなつた頃、ふと思ひ出したら啜つて、惡くないなあと呟く程度に、袋麺とは距離が出來た。正しくは適切な距離になつたと云ふべきか。

 ただ世の中には冗談めかした品書きがあるもので、某所の串焼き屋でチキンラーメン出前一丁を見た時は、笑つていいのかどうか、判断に苦しんだ。それなら食べてから考へるのが一ばんである。それに焼きものもちよつとした一品(ことにかつ煮がよかつた)も中々の塩梅だつたから、外れても外れではなからうと出前一丁を註文したら、何だかよく判らないが兎も角うまかつた。醉つてゐたでせうと云はれたら、醉つてゐて旨く感じられる味だつたと訂正してもいい。確か二百円とか三百円だつた記憶してゐるから、そんなに手を掛けてゐないのは明らか(炒め野菜と煮抜きが乗つてゐた)で、大将の云はば洒落だつたのだらう。店は今もあるが、代替りしてゐるから、こんな冗談が残つてゐるか判らない。

 それでまた袋麺との距離が近くなつた。と云ふと嘘になる。ああいふのは書かれてゐる通りに作る…茹でるのが一ばん無難になるもので、わたしの場合、少なくとも最初の一回はさうすることにして、二回目が中々やつてこない。但しサッポロ一番醤油味だけは、例外扱ひ出來る程度に馴染んでゐるから、例外としていい。なので偶さか食べる時は、生姜や大蒜を隠したり、刻み葱を乗せたりするのは勿論、カレーの残りや煮物の余つた出汁をのばしたので茹でたりする。この場合だと、小鍋をさらへられるし、馬鈴薯だか人参だか大根だかの欠片がそのまま具になつて、旨いのかどうかと云へば、素で茹でる方がまあ大体は旨い。なーんだ、そんなら馴染みの味に任せればいいぢやあないのと呆れられさうだが、空腹だつた中學生をぼんやり思ひ出すのに、こんな手軽な方法もないから、時々さうする。それでひどく塩からくなつて仕舞つて、大将のやうにはいかないものだと後悔する。