閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

147 平成最後の甲州路 第4回

 何年前だつたか。中野にある立飲み式の葡萄酒バーで、偶々隣あつた外國人と話をした。スウェーデンからの観光客だつたと思ふ。中野に來るくらゐだから、少々マニヤックな気配があつて

「おれは今日、いいものを手に入れた。見せてやらうか」

と云ふので、出してもらつたら、『千と千尋の神隠し』に出てくるカホナシだつたかの巨大な貯金箱だつた。ああいふ時はどんな顔をすればよかつたのか。当人はこいつをストックホルムのミヤザキ・ファンに自慢するんだと云ひたげに嬉しさうだつたけれども。

 何せ立飲み屋だから、お互ひに多少なりとも醉つてゐるし、おまけにこつちは日本語訛りのブロークン・イングリッシュしか使へない。それでもどうにか話が途切れなかつたのは、周りのお客と一緒に、おまえたちの國では何が旨いんだとか、日本で気に入つた食べものはあるのかとか、そんなことを訊いたからで、詳しいところはもうすつかり忘れてゐる。それでわたしが葡萄酒と云ふのを耳にした別のお客が

「ワインつて呼ばないんですね」

「好みの話でせうが、どうも気に入らなくて」

スウェーデンでは何と云ふんでせう」

「確か、ヴィーネだつたか知ら」

そこでスウェーデン人に確かめると

「その通りだ。中々いい發音だぞ」さう褒めながら「ひよつとして、お前はスパイか」

北欧のユモアは六づかしいなあ。

 わたしが葡萄酒と口にしたのは意図的で、日本酒をお酒と書き、また呼ぶのと同じである。要するに字面や音が気に入らない。ヴィーネ(乃至ヴィン)はさうでもなく、何故かと訊かれてもかういふのは言葉の好み(念を押すがスパイだからではありませんよ)で、さう書き或は發音する方が美味さうな感じがする。まあ気分の問題なのは確かでもあるから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は余り気になさらなくとも宜しい。

 その葡萄酒…乃至ヴィーネ…またはヴィンは、食事中に飲むのがおそらく本式だと思ふ。前述のバーは立飲みなので、生ハムかピックルスでなければパテをつまみにする程度(さう云へばある年の冬、トマトを使つたソップで仕立てた煮込み…おでんを出したことがあつた。マスタードで食べたのだが、あれは旨かつたな)だが、それでも何も無いよりは遥かにいい。それで思ひ出すのは玉葱とチーズで、古代の希臘の兵隊が糧食に与へられたのがこの組合せだつた、と何かで讀んだ記憶がある。確か保存が利くとかそんな理由だつたか。『イーリアス』では名だたる武将が屠つた羊を焼いて喰ふ場面があつた筈だが、末端まではまはらなかつたらしい。さてチーズについて、メモに

 チーズ

 あはせるお酒

 少ない

 不幸?

 とあつた。何を目にしてか判らないが、何となく書ける気分になつたのだらう。併し見返して思ふに、わたしはチーズのことを丸で知らない。いや、おそろしい数の種類があつて、旨いのと口に適はないのがあるのは知つてゐるが、だからどうだと云はれたらそれまでであつて、詰り知らない。たとへば単語としてナチュラルチーズやプロセスチーズを耳にした記憶はあつても、どう違ふのか。そこで雪印の“ミルク便利帳”に教へを乞ふと

http://www.meg-snow.com/customer/milkbook/content10.html

前者は“生乳などを乳酸菌や凝乳酵素で凝固させ、乳清の一部を除去したもの、または、これを熟成させたもの”で、後者は“ナチュラルチーズを乳化剤などを加えて加熱して溶かし、再び成形したもの”と区別してゐる。これだと判りにくい。ヰスキィのシングルモルトとブレンデッドのやうなちがひと理解してまあ、大外れではないでせう。更に同じく雪印の“チーズクラブ”によると

http://www.meg-snow.com/cheeseclub/knowledge/jiten/shurui/

ナチュラルチーズは製法によつて、大別細分されるらしい。当り前の話で、人類史を遡ると、紀元前六千年頃にはあつたさうだから、酪農とチーズは不二の関係だつた。翻つて我が國を見ると縄文の初期で、木の實を拾つたり、小動物を狩つたりが精々である。我われのご先祖(のごく一部)がチーズ(といふよりその原型)に触れたのは、どうやら佛教伝來と近い時期で六世紀くらゐ。日本の酪農や畜産がどんな歴史を持つのか、わたしはよく知らないが、牛を飼つたのはそれ以前からなのは確實らしい。皮や角の利用が主な目的だつたといふ。蘇や酪を知つたご先祖が、渡來ものの“凝つた”食べものに熱中しただらうとは、想像としても六づかしくないし、それが牛の乳から作れると判つた時は喜んだにちがひない。御門から臣へ下賜されもしたから、文字通りの珍味であつた。尤も宴席で食したわけではなく、お土産ものだつたらしいけれども。

 ただここで気になるのは、乳製品の衰退よりも寧ろ甲斐國の方向で、甲斐と云へば葡萄酒。葡萄酒に適ふ一ばん簡素なつまみと云へばチーズ。さういふ短絡的な連想が働いた結果である。然も甲斐國は勇猛をもつて鳴る騎馬武者の産地ではないか、更に近隣の信濃では馬肉を食べる習慣まであることを思ふと、甲信は酪農や牧畜に適した風土だと考へられる。實際、やまなし観光推進機構のサイトを見ると

http://www.yamanashi-kankou.jp/tradition/meat.html

甲州牛に甲州ワインビーフフジザクラポーク甲州地鶏と旨さうな銘柄が並ぶのにあはせて、“八ヶ岳南麓、また富士北麓の(中略)高原に適した牧草によって、のびのびと育った牛からは美味しい濃厚な牛乳が得られ、またチーズ、ハム、ソーセージ、べーコン”が作られてゐるらしい。何年か前、サントリーの登美の丘にあつたレストランでフジザクラポークのソテーを食べたが、確かにあれは美味かつた。鶏もつ煮も美味かつた。牛は食べてゐないが、この流れでまづい道理はなく、だとしたらハムもソーセイジもベーコンも、そしてチーズだつて美味いにちがひない。併し甲州チーズの名前は耳にしたことはなく、勿論わたしが物知らずなのはあるだらうが、それでも調べてみなくちやあ判らないのは、何だかをかしい。

 以前から何度も触れ、この稿の前段でもしつこく触れてゐるのだが、葡萄酒には食べものを欠かすわけにはゆかない。甲斐國の葡萄酒藏は、その辺にひどく鈍感な気がされる。ここで思ひ出すのは(またしても)吉田健一で、いはく、お酒は肴がなくても存分に味はへる、といふ指摘は可成りの部分で正しい。わたしはお酒であつても肴は不可欠の派閥に属するから、眞似はしない(もしくは出來ない)けれど、肴抜きでも旨く飲めるといふお酒の特異さは、確かにその通りである。かう云ふと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは

「白州だつて、さうだよね」

と甲斐國に絡めながら突つ込まれさうだが、ヰスキィはそもそも、食事時に飲むものではない。お酒…たとへば[七賢]は食事前に飲み、食事をしながら飲み、食べ終へてからも飲める。もしかすると甲斐國で葡萄酒醸りに携はるひとは、葡萄酒をその感覚で捉へてゐるのではなからうか。だとすればそれは残念ながら勘違ひで、甲斐甲府勝沼の葡萄酒を満喫するなら

甲州牛のステイクや、フジザクラポークのソテー、甲州地鶏の焼き鳥」

と並べて、富士八ヶ岳のチーズをどうぞと大きに宣伝しなくてはならない。マルキ葡萄酒の“マリアージュ”ツアーではある程度、さういふ愉しみを教へて呉れて、費用の問題はあるとしても、かういふ試みはもつと広がる方がいい。そんな切つ掛けがあれば、普段に飲む一ぱい乃至一本に、けふはこれを食べるから、葡萄酒を撰ばうと考へ易くなる。同じことはお店にも云へて、まことに失礼ながら、山梨県には旨い食べものの印象が薄い。本格イタリアンとか気がるなフレンチとか炭火のもつ焼きとか、それも惡くはないのだが、甲斐の旨いものと、葡萄酒を存分に味はへることを謳つてもらひたいと思ふ。ひよつとしてわたしが知らないだけとも考へられるが、調べても直ぐに判らないのだから、宣伝はされてゐないんだと居直れなくもなからう。そこで中野で出会つたスウェーデン人を思ひ出す。あんたたちは普段、ヴィーネにあはせて何を食べてゐるんだと訊いた筈だが、それが何だつたのか、記憶からさつぱり抜け落ちてゐる。尤もひとをスパイ呼ばはりするやうな男だから、北欧式の嘘だつたかも知れない。