閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

153 眞似びにならず

 オーケストラの指揮者にあくがれがある。

 さう思つたのは、併し近年のことで、2012年にウィーンフィルのニューイヤー・コンサートで棒を振つたマリス・ヤンソンス…正確に云ふと、その掉尾を飾る「ラデツキー行進曲」でのヤンソンスで、何しろあのコンサートはお祭りである。樂団だけでなく、お客にも棒を振り手拍子を調へ、お客もまた嬉しさうに、時に大きく、時に囁くやうに手を拍つてゐた。

 恰好いいなあ。

 さう思つて他の指揮者はどうだらうと観てみると、ゐましたね、凄いひとが。カルロス・クライバー。かれがニューイヤーで棒を振つたのは1989年と1992年の2回だが、どちらを観たかははつきりしない。身につけたものはぴしりと着こなしながら、片手をポケットに突つ込んだ、リラックスといふより、砕けすぎたスタイル。併しそれがまつたくきまつてゐたから驚いた。驚きながら、カラヤン小澤征爾では、きつとかうはいかないだらうと思つたのはここだけの話。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に誤解されると困るから念を押すと、わたしはクラッシックに詳しいわけではありません。「威風堂々」や「アイネ・クライネ・ナハト・ムジク」、後は“歓喜の歌”がくらゐしか知らないのだから、露骨に解らないとするのが正しく、よつて指揮者へのあくがれも、見た目の恰好よさに痺れるミーハーな気分といふことになる。

 そこで多少の居直りを云ふなら、讀者諸氏には同じやうな気分はあるのぢやあなからうか。野球の監督と軍隊の指揮官、それからオーケストラの指揮者が男子のあくがれる職種だと何かで目にした記憶があつて、全面的な同意は出來にくいとしても、判らなくはないでせう。ただ監督だとファンから手厳しい批判(この批判はあくがれの裏返しでもある筈なのだが)を浴びる恐れがある。軍隊は血腥くていけない。さう考へれば、指揮者へのそれが高くなるのは寧ろ当然でありませう。

 とは云へ、何も知らないのに、何を振りたいのだといふ問題があるだらうと、至極当然の疑問か突きつけられる可能性はある。尤もな疑問だが、あくがれるくらゐだから、この曲を振る指揮者が恰好いいと思へる實例がある。先づ歌劇の「イーゴリ公」から“韃靼人の踊り”。それから「ボレロ」と「ラデツキー行進曲」がそれで、いづれも花やかだし、ドラマチックでもある。たれの眞似で棒を振らう。

 ヤンソンスのやうな茶目つ気や、クライバーのきざは無理だし、カラヤンはどうも軍隊調の感じが気に入らず、小澤は悠然が足りないと思へる。ズービン・メータやバレンボイムの背筋を伸ばした感じは惡くないが、面白みに欠ける(あくまでも見た目の話ですからね、念の為)さうやつて颯風好みの恰好よい指揮者を探すと…ゐましたね、佐渡裕といふひとが。京都生れのこのひとが振つた「ファランドール」の映像を観たことがあるが、最初の3秒くらゐで指揮棒をどこかに飛ばしてゐて、別の指揮の時では折つたこともあるといふ。かういふ指揮者は少ないんではなからうか。聞いたところによると指揮棒はオーダー・メイドだといふから、贅沢といふか豪儀といふか。その佐渡流で“韃靼人の踊り”のハンを讃へるくだりを思ひ切つて振れば、きつと佳い気分になれるだらう。

 尤も颯風指揮を實現させるには、先づわたしが譜面を讀める必要があつて、これが中々に六づかしい。何しろこれまで碌に讀んだことがないのだもの。あくがれを眞似びに転化させるとして、棒を振れる迄に、こちらの命脈が尽きてゐる。