閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

179 きつと宿つてゐる

 沖縄そばにはお世話になつた。干支ひと廻り余り前に2ヶ月か3ヶ月、沖縄市に潜り込んでゐて、その時に何杯も啜つた。饂飩も蕎麦も食べなかつた。ラーメンはやむ事を得ず何べんか食べたが、うまくなかつた。きつと土地柄なのだらう。随分以前に新宿で食べたのはまづかつた。

 併し新宿で食べたのが果して沖縄そばだつたのかは疑はしい。正式には一定の條件を満たしたものが“本場 沖縄そば”を名乗れるさうで、沖縄生麺協同組合(http://www.oki-soba.jp)によると

沖縄県内で製造されたもの

・手打式(風)もの

・原料小麦粉:タンパク質11%以上/灰分0.42%以下

・加水量:小麦粉重量に対し34%以上~36%以下

・かんすい:ボーメ2度~4度

・食塩:ボーメ5度~10度

・熟成時間 30分以内

・めん線:めんの厚さ1.5~1.7ミリ切葉番手/薄刃10番~12番

・手もみ:裁断されためん線は、ゆでる前に必ず手もみ(工程)を行う

・ゆで水のPH:8~9

・ゆで時間:約2分以内で十分可食状態であること

・仕上げ:油処理してあること

これらすべてを満たさなくてはならないといふ。詰り新宿の沖縄そばは自称といふことになる。それとも本場を名乗つてゐないから、平気なのだらうか。どちらにしてもまづかつたから、お店が残つても潰れても、わたしには関係がない。

 本場かどうかはさて措き、時に沖縄そばが恋しくなるのも事實である。ほんの少しのこーれーぐすを垂らす。何といふ名前だつたか、鹿尾菜を混ぜこんだ炊き込みごはんと一緒に食べるとうまい。そこにオリオン・ビールの一本もあれば豪勢な晝めしになる。泡盛やてびちー、ちやんぷるーはどうしたと思はなくもないし、那覇の裏手で喰つたみみがーの味噌和へは、確かに泡盛に似合ひの旨さでもあつたが、それはそれで別の樂しみとしておく。

 ここで沖縄そばを沖縄の外で食べて、果して旨いのかといふ疑問が浮ぶ。

 博多、長崎、尾道、境港、倉敷、松山、高松、大阪、舞鶴、金沢、新潟、名古屋、甲府、東京、宇都宮、仙台、盛岡、鶴岡、函館、小樽、稚内

 地域の條件以外が満たされてゐても、旨いとは思ひにくさうである。仮に沖縄人が商つてゐたら…矢張り六づかしいのだらうな。土地の名前を持つ食べものは札幌ラーメンや音威子府蕎麦、讃岐饂飩、長崎ちやんぽん、薩摩揚げにその他諸々とあるけれども、その冠の土地でなくては旨くなささうな感じがされるのは沖縄そばくらゐなのを思ふと、どうやらあの不思議な麺には、沖縄といふ場所の底が抜けた陽気さが、欠かせない調味料であるらしい。東都で晝に長崎ちやんぽんを啜つて、薩摩揚げと焼酎を酒席で愉しみ、帰りに札幌ラーメンで〆るのは出來ても、那覇で同じことが出來るかと云へば疑問である。いや出來るのは出來るとして、さういふ眞似をしたくなるかどうか。土地の名前が光で出來てゐると喝破したのは大岡信だが、そんなら食べものにはきつと、土地の光や風や笑ひ聲が宿つてゐる筈で、沖縄そばほどその光と風と笑ひ聲が濃厚な食べものが外にあるとは思ひにくい。それはかまはないし、また沖縄そばの為に喜ばしくもあるのだが、東都の隅に逼塞するこちらにとつて、思ひ立つて直ぐに啜れないのはたいへん困る。