閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

181 仙女の爪

 背中が痒くなると孫の手を使ふ。新大久保辺に用件があつた時、偶々見つけた百円ショップで見つけたやつである。百円ショップと云つたつて、消費税は別枠だから、勿論その分も綺麗に支払つた。店を出てから、看板は百円ショップ(消費税別)とすべきではないかと思つたが、どこに文句を云へばいいのか判らないから、そのままにした。

 百円(消費税別)とは云へ、竹製で背中を掻く部分には申し訳程度の爪のやうな切れ込みもある。大坂の實家にも孫の手はあつて、半世紀近く家のどこかに転がつてゐる。値段は記憶にないが、百円(消費税別)でなかつたのは間違ひない筈で、その形は百円(消費税別)と変るところはない。背中の掻き具合も、較べてはゐないけれど、さう大して変らないだらう。上等の孫の手を使つてゐない所為なのか知ら。ただそもそも上等な孫の手があるのかどうか。

 ところで孫の手と書くのは不正確らしい。ものの本によると麻姑の手が正しい。麻姑は中國の神話に出てくる仙女。爪が鳥のやうに長いさうだ。その長い爪で痒いところを掻くのを麻姑掻痒(対になるのが隔靴掻痒)と呼ぶのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、こんな熟語、ご存知でしたか。わたしは知らなかつた。

 その序でに調べると、麻姑の手(とここからは書く)は別に竹製品である必要性はない。中國には象牙に金銀や珠を嵌め込んだ豪勢な麻姑の手もあるかあつたかした。装飾品だつたのだらうか。欧州の貴族のご婦人もさういふ豪華な麻姑の手を愛用したさうで、どうもこちらは實用的な雰囲気が感じられるね。当時の西欧で日々の入浴は習慣ではなかつた筈だから、二六時中、背中が痒かつたにちがひない。似た道具はあつたと考へるのは当然だが、そこにシノワズリが(ほんのり)含まれてゐても不思議ではなささうに思へる。

 尤も百円(消費税別)の竹細工だらうが、幾らになるか見当もつかない象牙細工だらうが、麻姑の手に求められるのは、手が届かない、背中の痒いところを掻くこと(時々少し遠い場所にある煙草の箱を引つ掛けもする)で、さうなると金銀珊瑚を散りばめた仕立ては、金銀珊瑚の分だけ無駄だと云へなくもない。それに機能の点で見ると、麻姑の手は既に大完成の域に達してゐる。折畳み式とか伸縮自在とか、さういふ追加はあるにしても、それは傘の長いままか折畳みかのちがひと同じで、傘の大完成に匹敵するのはもしかすると麻姑の手ではなからうか。さう考へて發見だなあと自讚したくなつたが、麻姑は仙女である。鳥のやうな爪が最初から大完成してゐても不思議には当らない。その爪を模したのが百円(消費税別)なのは、彼女の気に入らないところかも知れないけれど。