閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

219 お刺身離れ

 齢の所為ですかと訊かれたら、まあさうでせうなと応じるのに、それほどの厭惡を感じなくなつた。お刺身のことである。三十台に差し掛かるまでは、肉が正義だつた。この場合の肉は牛肉で、それも脂と相似形の意味。胃袋がそれだけ若かつたと云つていい。それがお刺身に移行した。獸肉の脂をどうにもくどく感じてきたからで、その時はおれの嗜好も大人になつたと感慨深かつたな。かういふ感慨は大体の場合、勘違ひである。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も二十歳になつて酒席を体験し、大人になつたなあと思つたでせう。あれと同じ。その勘違ひが十年余りを過ぎ、次の勘違ひにどうやら、移りつつあるらしい。

 お刺身がどうでもよくなつてきた。

 といふのは乱暴か。烏賊や蛸は喜ばしく、鯛は文句を云はず、鮪や鰤の類はあつてもいいかと思へ、サモンは要らない。そんな風になつてきた。その代り、鯖の味噌煮や鰯の塩焼き、鯵の開きといつたところが嬉しくなつてきて、そこの貴女、爺むさいと云つちやあいけません。日本語には成熟といふ都合のいい言葉があるのです。それもまた勘違ひかも知れないけれど、實際さうなつてきてゐるのだから仕方がない。と書いてから慌てて念を押すと、お刺身が厭になつたのではない。自分から積極的に食べたいとは思ひにくくなつただけのことで、つまんだら旨いとは思ふ。併しお刺身がお酒…日本酒でも葡萄酒でも焼酎や泡盛、ヰスキィ、ウォトカに適ふものなのかどうか。

 魚肉にしても獸肉にしても、生のままで食べるのは、さうさう古いものではない。お刺身の原型と考へてよささうな膾は、新しい肉を細切りにして、調味料(酢や酒、香味野菜)を和へた食べもので、詰り腐敗への配慮があつた。現代的な意味でのお刺身が現れたのはどうやら十九世紀の半ば頃かららしく保存や衛生上の問題が本格的な解決に到つたのは近代に入つてからである。調理の歴史を俯瞰すると、長い前史はあるとしても、新参者と云つて誤りではなからう。わたしは寛容を旨とするから、それ自体に文句はつけないが

「日本酒を飲むなら、やつぱりお刺身だよねえ」

とする意見には与し難い。適ふか適はないかで云へば適ふ。併し一ばん最初に挙げていいかと云ふと、疑念がある。塩漬けや味噌漬け、或は醤油漬け。酢〆。天日干し。煮つけ、焼き、蒸しに焙りも追加しませうか。我われのご先祖は魚をそんな風に料つて飲んだにちがひない。伝統といふやつである。伝統の何もかもが正しいと云ふほど、料簡は狭くないけれども、長い期間…お刺身よりも遥かに…練られた組合せが旨いのは認めなくちやあいけない。

 順番は逆ですよ。かういふことを考へて、お刺身からの距離を置かうと結論づけたのではなく、お刺身から距離を置いてもかまはないかと思つてから考へた理由である。ただ順番は兎も角、的外れな見方ではないと思ふのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何だらう。そこでもうひとつ、お酒…ここでは日本酒の意味で用ゐるのだが、その執着が薄れてきた(かも知れない)のも、こちらの事情に追加してもいい。いやお酒が厭になつたのではなく、日本酒を含めた酒精全般の、それだけの味を愉しまうとするのが、どうも面倒に感ぜられてきたといふ意味。飲むのが愉快なのは当然として、わたしの場合、そこに肴を欠かすわけにはゆかず、その中で最上位の座を占めてゐたお刺身の地位が、この二年ほどで揺らいでゐると、そんな風に受け取つてもらひたい。

 そんなら塩漬けや味噌漬けに醤油漬け。酢〆。天日干し。煮つけに焼きに蒸しの魚が最良なのかと訊かれたら、 そこは今のところ留保したい。何故と云ふに、ここ最近、チーズがすごい勢ひでのしてきてゐるからである。慌てて念を押すと、チーズの膨大な種類を理解してゐるわけではない。ここで云ふのは、その辺のマーケットで賣つてあるやつ。小さい賽子のやうな形だつたり、円形を六分割してゐたり。特段にこだはらなければ廉に買へる、所謂プロセスチーズですな。それなら葡萄酒でせうにと思つた貴女、奥さん、一ぺん騙されてお酒にあはせてご覧なさい。削り節に醤油をほんの少し垂らすといい。甘くない佃煮をあはせるのも旨い。面倒ならそのままだつて、かまひません。適ふ。葡萄酒を筆頭に、焼酎や泡盛、ヰスキィ、ウォトカにも適ふのは云ふまでもない。何を飲む夜にも、これがあれば不平不満を鳴らすことは殆どないだらう一点で、チーズほど優れた食べものはないのではないか。

 併しお酒にねえ。と不思議に思はなくていい。我が國には古來、酪や醍醐といつた乳製品(チーズとクリームの中間だつたとやら)があつた。雲上人の嗜好品(御門からの下賜品だといふ)で、搗栗と一緒に味はつた。チーズに栗が適ふのか、気にならなくもないが、当時の栗は今ほど甘くはなかつた筈で、木の實それ自体の味だと考へれば、中々にいけさうにも思へる。それにこの頃なら、佛教の不殺生といふ考へ方は輸入される前か、広がりを見せてゐなかつたかだらう。きつと獸肉を焙るくらゐはしたに相違ない。焼き肉…バーベキューですな。ひよつとして塩漬けや燻製(ハムとベーコン!)だつてあつたかも知れない。白酒か浄酒か、今より辛く酸つぱいそれを飲む宴席も惡くない。となると搗栗を添へた乾酪だか醍醐だかはデザートだらう。古代的な酒席を望むわけではないが、これなら葡萄酒にも似合ひさうでもある。かういふ方向に興味が移れば、お刺身の地位が相対的に低くなるのはやむ事を得まい。さて取敢ず、マーケットに行つて、安賣りのチーズを買つてきませうか。