閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

221 東京めし

 むやみに旨いかは兎も角、平均点は高いと思へるのが東京のめしである。ここで云ふめしは食事全般を指してゐる。だから北海道式の鮭や羊、沖縄風のちやんぷるーだけでなく、中華料理や伊太利、佛蘭西、露西亞、土耳古、印度も含めた話になる。本当かどうかは別として、東京でフィッシュ・アンド・チップスを食べた英國人が、倫敦で食べるより旨いと嘆いたさうである。確かに東京のパブで食べたフィッシュ・アンド・チップスは惡くないものだつた。尤もそれが東京での平均的なフィッシュ・アンド・チップスだつたかは解らないし、それが倫敦より旨いとしたら、英國紳士には同情を禁じ得ない。

 まあ東京で喰ふ外國めしには目を瞑りませう。そこで東京で喰ふ、東京風のめしに話を移す。移すとして何があるだらう。

 早鮨。

 天麩羅。

 蕎麦。

 思ひつくのはこんなところ。まつたく安直だなあと呆れられるやも知れない。そこは認めるとして、外に頑張つて鰻か泥鰌、後は佃煮が精々と思へる。ただこれらはは当り前に食べられるかどうかの点で、少し計り見劣りがする。なのでこの稿では、早鮨と天麩羅と蕎麦を、暫定的に東京めしの代表格としておく。

 この三つには共通点がある。元々下賎だつたのが、いつの間にやら一級を食べたければ、それなりの出費が求められるくらゐ…詰り高級な料理まで出世した点である。東京めしと云ひつつ、江戸の町民に源流があるのも共通してゐる。最初は素早く食べられるのが利点だつたことと挙げておかうか。それぞれの成り立ちまでは触れないが、これらはひよいと腰掛けて、ちよいとつまんで、すつと立つ、云はばファストフードであつた。それを百年かけて洗練さしたのは江戸の下層民で、堂上貴族が磨きあげた京都のめしとは対照的と云つていい。このちがひは両都の成り立ちのちがひそのものまで遡るのだが、踏み込むのは控へます。話が逸れるのはいいが、戻れる見込みがない。

 さて。ここで気になるのは、早鮨と天麩羅と蕎麦を同時に…一回の食事で…味はへるのかといふ問題。天麩羅と蕎麦は簡単ですな。天麩羅蕎麦があるくらゐだもの。定食とか御膳とか称して、天麩羅が別誂へになつたものもある。だつたらそこに早鮨を追加すれば、話は終りぢやあないの。マーケットでカップの天麩羅蕎麦と半額になつた早鮨を買へば、廉価にもつくことだし。わたしもさう思つた。思つたのだが、どうも早鮨は似合はなささうな気がする。ここでひとつ、忘れてゐたことを大急ぎで云ふと、早鮨は所謂握り鮨の意。なので巻き寿司や散らし寿司、稲荷寿司、熟れ鮨の類は含まれない。ここで(大坂風の)天麩羅饂飩を思ひ浮べると、早鮨でも巻き寿司でも稲荷寿司でも熟れ鮨でも受容れさうな感じがされるけれど、そもそも(大坂風の)饂飩には天麩羅が適はない。ややこしいなあ。饂飩と蕎麦の種もののちがひを考へだすと、また戻れる気配がなくなるから、東京めし…早鮨と天麩羅と蕎麦に話を絞りませう。

 では早鮨と天麩羅と蕎麦の中で、何を好むかと云ふと、蕎麦だらうと思ふ。曖昧になるのは比較的、蕎麦を啜る機会が多いのに対して、早鮨と天麩羅はさうでもなく、単純に順位をつけるのは不公平に感じるからである。では何故、蕎麦の機会が多いか。玉子焼きで一ぱい呑つてから啜れる老舗は勿論、あはただしく掻き込む立ち喰ひまで、時間と財布と腹具合にあはせて撰び易い、といふ簡単な事情。大きく視ると、町民のファストフードに始つて、通人の道樂に到る三百年余りを一望出來ると云ふことになる。早鮨や天麩羅には無理な話(それで値うちが下がりはしないけれど)ではあるまいか。かういふ食べものが中華や伊太利、佛蘭西、露西亞、土耳古、印度にあるものなのか、わたしの知るところではないが、変化の過程の中で旧さは新しさに吸収されきつてゐるのではないかと思ふ。さう考へると、東京めしの代表に挙げて、恐らく異論の出ないだらう蕎麦は、我われが思つてゐるより、異色なのかも知れない。まあ併し、蕎麦(でも早鮨でも天麩羅でも)を前にして、本当に望ましいのは矢張り、考察は横に置いて、啜り込むことである。